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過去ログ置き場

2007年

05年1〜6月 05年6〜8月 05年8〜11月 06年 07年


発言者: いまのまさし
TITLE: 表現の自由
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CATEGORY: ニュース
DATE: 01/24/2007 10:00:02 PM

 ブッシュ大統領は世界一のテロリストだ、という意味の言葉が書かれたTシャツを着て飛行機に乗ろうとしたら搭乗が拒否される。オーストラリアであった話だそうだ。

http://www.asahi.com/international/update/0122/012.html?ref=rss

 ま、一言だけ。
 ブッシュの代わりに、オサマ・ビンラディンとか金正一でも搭乗を拒否したのかな?




発言者: いまのまさし
TITLE: 表現の自由2 紅白とアリー
CATEGORY: 映画・テレビ
DATE: 01/26/2007 10:17:15 AM

 ぼくはある意味テレビ中毒。(笑) しかし、必ずしもヒット番組を見ているわけでもない。

 もはや旧聞になるが、例のDJ OZMAで話題騒然の紅白歌合戦も見ていない。理由は単純に面白くなさそうだったから。
 評判のドラマなども、放送当時は見ないであとからビデオで見たものも多い。「アリー・マイ・ラブ」とか「冬ソナ」などはそうだ。
 ただ、最近はメディアのあり方が激変してしまい、海外ドラマはまずCSなどの有料放送やDVDなどで公開され、その後に地上波で放送されるというパターンが多くなってしまった。何となく変な感じもするが、映画が作られて公開され、その後DVDが売られ、続いてレンタル、テレビ放送となることを考えれば何となく納得できなくもない。

 それはともかく。

 「アリー・マイ・ラブ」は放送終了後にレンタルビデオを借りて何本か見た。たぶん最初の数話である。そのときは大して面白いとも思わず、それ以降ビデオを借りることもなかった。
 ところが最近テレ玉で再放送されていて、何気なく見るようになったのである。
 こうして見ると性描写も結構過激だ。もちろん直接的に全裸が見えるというわけではないのだけれど。これは今テレビ東京でお昼に放送している「CSI:4」なんかも同じようなもんである。
 ハダカということであれば、日本のテレビはかなり鷹揚で、ゴールデンタイムに放送されているテレビ朝日の「混浴露天風呂連続殺人」シリーズなんて、毎回ヌードシーンはお約束。ついでに言えば午後3時からもよく再放送される。
 主観的に言えば、 モロ裸の「混浴露天風呂連続殺人」より「アリー・マイ・ラブ」の方がずっとエロいと思う。

 そこで、紅白におけるDJ OZMAの一件である。
 初めに言っておくが、ぼくは気志團は聴かないし、「パラパラ」ダンスチームのようなDJ OZMAにも関心がない、というかあまり好きじゃない。
 しかし、そのパフォーマンスとしてハダカになること自体を否定する理由はないし、ましてや下にボディスーツを着ていたというのであれば、かつて本木雅弘が大量のコンドームをぶら下げて歌ったのとどちらが過激なのかと思わざるを得ない。
 「アリー」のようなドラマを大々的に売っておいて、DJ OZMAはダメというのもなんだかな〜と思う。そもそも、DJ OZMAのパフォーマンスがどういうものか十分承知で、その過激さを売り物にしようと紅白に起用したわけだから、後からアーチストの方に責任転嫁しているように見えてならない。

 もちろん、他人の裸を見たくないという人がいることは否定はしない。イスラム圏では女性の髪でさえ見せたく(見たく)ない人もいるだろう。
 その意味では、受け手の側の選択権が確保されていなければならないとは思う。
 これはどういう表現、演出が行われるのかということが、受け手にちゃんとわかるようにしておいて、その上で受け手が自分で見る、見ないを選択できなくてはならない。食物アレルギーや宗教上の理由で特定の人が食べられない食材があっても、それを排除するのではなく正しく選択できるようにするというのが現代の見識であって、情報にもそうした対策がきめ細かくとられていく必要がある。

 昨今の風潮は、表現の自由を制限する方向に向かっているような感じがする。
 もちろんそれには、それなりの理由があることもわかるが、規制の前に、表現者・発信者の責任の明確化と、受け手の側の選択権の確保、情報被害に対する救済策などを整備することで表現の自由の領域を広げていくことを考えていくべきだ。




発言者: いまのまさし
TITLE: 木久蔵、きくお親子のダブル襲名
CATEGORY: 文化・芸術
DATE: 01/26/2007 11:42:30 AM

 矢野誠一の「志ん生の右手」(河出文庫)を読みさしのまま、ほったらかしにしているが。
 だいぶ昔の落語批評などを集めた著作の文庫化だが、1970年代から80年代頃の落語をめぐる雰囲気がなんとなくわかる。大衆芸である落語を日本文化の中にどう位置づけていくかというようなことが課題になった時代で、落語と落語を取り巻く現象を知的に分析的に理解しようという気概を感じる。
 この時代に落語家を目指した入門者は大学の落研などで落語の「芸術性」を考えていた人も多く、その層は現在では中堅となっている。ただ、80年代から90年代に世相が変化していくと、だんだんとこういう理屈っぽい落語論は少なくなって、もっと本来の大衆芸能としての面白さの面がクローズアップされてきているように思われる。インテリの(実際は苦学した上で神戸大に入ったものの1年で大学に見切りをつけたという)枝雀が自死し、プリンスと呼ばれた志ん朝が病没したあたりが大きな転換点で、現在では林家三平の評価が高まるなど、時代の流れを感じる。

 さて、この著作の中で、歌舞伎は子供に名跡を継がせるが落語は他人に継がせるというような記述がある。矢野氏はこのことを落語界の長所として見ているようだ。
 芸が家の芸、格式の芸になってしまうと、そこに大きな変革は起こりづらくなる。茶道でも華道でも、もちろん一線級の家元は常に変革を考えているのだろうが、一方で重たい伝統も背負わなくてはならなくなる。
 余談だが和歌も明治の改革前には芸事の一つであり、近代短歌が興らなければ茶道、華道と同じような歌道家になっていたかもしれない。事実今でも近代短歌とは別の道を歩む伝統形式の和歌を家の芸として伝える流派があるそうだ。

 そこで思うのは今年予定されている林家木久蔵、きくお親子のダブル襲名というやつだ。木久蔵が息子のきくおに名前を譲るという。
 エンターテナーである落語家が派手なことをやって人気をとろうというのは間違いではないし、話題作りとしても木久蔵の新しい名前を公募で選ぶなど、なかなか落語家らしいとは思う。
 ただ、これがこれ限りの一つの洒落で終わらないかもしれないという危惧も感じる。
 やはり落語家は積極的に自分の子供に名前を継がせてはいけないと思う。そうなると落語界にある種の沈滞感を生み出してしまうのではないだろうか。

 そもそも、落語家の子供が親の名前を継ぐことは珍しいことでもないが、それは基本的に周りの大師匠が薦める形をとるのが普通であろう。たいていは親が死んで何年も経ってから名前を継ぐというのが一般的ではないかと思う。もっとも親が新しい名前を継いで、その代わりに親の名前を継ぐと言うことはあったのかもしれない。しかしその場合でも、親が大名跡を継ぐということが初めにある話だ。
 これまでのあり方からすれば、今回の木久蔵襲名にもっと批判があっても良さそうなものだが、ここには伏線がある。林家正蔵襲名である。

 先々代の正蔵は林家三平の親であり、林家こぶ平(現・正蔵)の祖父に当たる。正蔵の名前自体は最晩年に彦六と改名した先代の正蔵が継いだのだが、この襲名は一代限りの約束があったそうで、三平が急逝したことで自分が生きている内に名前を返したいと思うに至り、自ら正蔵名を返上したということだ。ちなみにこの彦六の正蔵が木久蔵の師匠である。
 こういういきさつから、こぶ平が正蔵を継ぐこととなり、マスコミも大騒ぎをした派手な種名が行われたのである。

 こういうパフォーマンスが行われたことで、なんだか「落語家の名前は子供が継ぐ」のが普通というイメージが作られてしまったような気がする。
 もちろん、子供が継いではいけないとは思わないし、それはそれでよいのだが、そのことが固定化されたらつまらなくなってしまう。

 落語も落語家も落語界も、実はかなり反骨の気風がある。寄席に出られる権利がある落語団体を自ら一門そろって割って出るなんて話もよくある話だ。歌舞伎でそんなことをしたら大変なことになろうが、落語界ではそれを許しむしろ敬意をもたれるところがある。
 そうした落語の生きの良さがこれからも失われないことを願う。




発言者: いまのまさし
TITLE: 「となり町戦争」三崎亜記
CATEGORY: 書籍・雑誌
DATE: 01/28/2007 11:15:02 PM

 三崎亜記の「となり町戦争」(集英社文庫)を読んだ。
 嫌な味の小説である。
 しかし、この嫌な味が腐った味なのか、それとも食べたことのない外国の高級食材の味なのか、はたまた化学調味料の入れすぎなのか、よくわからないというのが本心だ。

 ストーリーを紹介しても仕方がない。題名の通り、隣の町と自分の街が戦争を行い、主人公がそこに巻き込まれるという「単純な」物語だ。コメディではなくきわめてシリアス、キワモノ的なテーマだがどちらかと言えば純文学ではないかと思う。
 ここにおける戦争は二つの地方公共団体が地域振興策として「共同事業」で行うものであり、それにより国庫からの助成も受けられ、行政レベルではコンサルに外部委託して行う予算の執行業務として極めて事務的に遂行されていく。
 しかも住民たちは戦争そのものの是非について問わないまま、損害補償があるかないかだけに関心があり、その中で多数の戦死者が生み出されていくことに無頓着である。
 一方で戦場に潜入することを趣味とした戦争オタクがいたり、戦争の当否の判断が出来ないまま「愛郷心」から志願兵となり戦死していく若者がいたり、個人的な感情を表に出さないまま職務として戦争遂行事業を淡々と処理していく役人がいたりする。結果的にこの役人は最後の最後まで戦争の被害者であることが示唆されるのだが。

 この作品をどう読むか、ぼくには今のところよくわからない。ただこの中で強調されている大きなテーマの一つは、戦争のリアリティのなさということである。今このときに誰かが殺し合いをしていて、そのことに自分は間接的にせよ関わっているのに、そのことがリアルに感じられない。というか、直接的に関係したとしてもその事態が過ぎればもはや本当にあったことかどうかさえ曖昧になってくる。
 こういう部分は現代の我々のありようを的確に描写していると言えるだろう。

 そのことはつまり「大きな物語」の喪失と、すべての問題が「個人」へ解消していってしまう現代日本人の問題としてとらえることが出来るかもしれない。
 この作品に沿って言えば、完全に管理された社会に生きる人間は最も個人的世界に生きる人間であるということになるのかもしれない。そこでは戦争の大儀という大きな物語を誰も考える必要がない。そうした中でワタクシに残されるのはアパートと会社を往復するだけの生活、もっと言えば恋や肉親への愛さえ淡泊になっていくほどの「個人」的生き方だけなのである。
 ネタ晴らしになるから詳しく書かないが、ある登場人物が作中で恋をしたのかどうかさえ定かではない。仮にこれが恋だったとしてもそれはあらかじめ「失う」ことを前提とした、実にあっさりとした関係でしかない。そして登場人物はその喪失こそが自分にとっての「戦争」体験であると得心するのだ。

 この作品のもう一つの大きなテーマは、殺し殺されることが悪意による行為ではなく、「殺すことは与えること」でさえあるという感覚、殺人と日常は「同じこと」になってしまうという、意識の平板化である。
 これは作品の中でもちょっと特殊な人物の感慨として描かれているが、現代社会における人々の意識にじわじわと忍び寄る感覚でもあるだろう。過酷な人生を送った人間は過酷であることが普通になり、他者に対しても過酷になる、と最近思うことが多い。

 さて、この小説の居心地の悪さは何なのだろうか。
 それはぼくの世代と新しい世代との意識のギャップにあるのかもしれない。ぼくらの世代は「戦争を知らない子供たち」であったにせよ、日本から飛び立った米軍機がベトナムの人民を殺戮しているという現実と隣り合わせだった。そしてそのことによってもたらされた「好景気」が戦争と平和の問題を、ぼくら一人一人の原罪の問題として鮮明化した。
 しかし、現代の若者たちにそうした抑圧者、加害者としての意識はおそらく無い。彼らにもし何かがあるとしたら、それはただただ自分が虐げられてきたという被害者意識であろう。彼らには自分を謙虚に、もしくは自己否定的に見る余裕は無いだろう。というか、自己否定的になったとたん彼らはこの世界で生きていくことが出来なくなる。それは競争社会において敗北することであり、比喩ではなく自らの死を意味するのである。
 とにかく死なないために勝ち抜くこと、それだけで彼らは疲れ切り、自分や世界を深く見つめ返す余力を失ってしまっているのだ。2ちゃんねるなどに巣くうネットウヨなどからもそうした匂いを感じる。しかも彼らはいったい自分が本当は誰と(何と)闘っているのかさえ見ることが出来ない。相手は「複雑化した社会」そのものだからだ。
 「大きな物語」を失った彼らの内面は空虚化する。そうした若者たちの空虚感は、作品の中では次のような言葉で表現されている。

「たとえどんなに目を見開いても、見えないもの。それは『なかったこと』なのだ。それは現実逃避とも、責任転嫁とも違う。僕を中心とした僕の世界の中においては、戦争は始まってもいなければ、終わってもいないのだ。」(『終章』より)

 ぼくらよりも上の団塊の世代ならば、見えないということ自体に自らの責任を感じただろう。ぼくらの世代(ぼくの言う失われた世代=1960年代生まれ)なら見えないこと自体に気づかない。筒井康隆なら同じ題材を使って人間と社会を哄笑する作品を書いただろうし、宮部みゆきなら人情物になったかもしれない。
 しかし三崎亜記は、すべてのカラクリを理解していながら、「見えないものは無いもの」として生きるしかない現代の若者の大きな無力感の物語として、この作品を書いたのである。


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TITLE: ジョン・レノン
URL: http://plaza.rakuten.co.jp/aizukan/diary/200702150000/
BLOG NAME: 愛聴図鑑
DATE: 02/19/2007 11:32:12 PM

「となり町戦争」(著:三崎亜記)を読みました。私は終戦からたった16年後に生まれた。でも戦争については何も知らない。戦争とそれ以外の境界線はどこで引かれるのでしょうか?私の住む日本海側では、かの国によって拉致されたと思われる失踪者がたくさんいます。これは......


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TITLE: 「となり町戦争」  三崎亜記
URL: http://plaza.rakuten.co.jp/newcontinent/diary/200702210000/
BLOG NAME: MyLife
DATE: 02/22/2007 04:05:53 AM

タイトルについ惹かれて買いました。どんな内容なのかなぁと楽しみにしながら読んだんですが結構、淡々と話が進んでいくのが印象的でした。第17回「すばる新人賞」を受賞しているようです。戦争の緊張感と町の雰囲気のギャップがこの本が評価された要因......




発言者: いまのまさし
TITLE: メインサイト更新
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CATEGORY: パソコン・インターネット
DATE: 02/03/2007 10:56:05 AM

 今月は少し遅れましたが、メインサイトの「WWW極地」を更新しました。




発言者: いまのまさし
TITLE: 産む機械
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CATEGORY: ニュース
DATE: 02/11/2007 09:51:45 PM

 柳沢厚生労働大臣のいわゆる「女は子供を産む機械」発言。結婚とも子供とも縁のない暮らしなので、正直言って皮膚感覚として直感的に「わかる」わけではない。一般論としてひどい発言だとは思うのだが。
 ただたぶん、女性を機械にたとえたかどうかが本質的な問題なのではないのだろう。ちなみに、ぼく個人としては「産めよ増やせよ」的なナショナリズムの臭いがするところに一番反発を感じる。

 なんにせよ、この発言の問題は「少子化」対策を、出生率の増大に求める考え方そのものにあるのではないだろうか。与野党もマスコミも、どうもみんな「子供を増やせ、そうしないと日本が滅ぶぞ」と異口同音に人々をあおり立てているような感じがする。そういう立場でものを見れば、いかに効率よく子供を産ませるかということに行き着くし、工場の機械の稼働率を上げるのと同じような発想になるのもいたしかたない。

 本当に子供が増えなくてはならないのか。
 そこのところから発想を変えなければ、こうした発言はきっと無くならない。

 世界的なレベルで考えれば、少子化よりも人口爆発の方がずっと脅威である。むしろ人口は減った方がよい。
 現代の日本に必要な「少子化」対策は、人口が減ってもみんなが生きていける方法を考えることではないのか。もし労働人口が減少するのであれば、富の分配の仕方を変えて、要するに税金を上げて「福祉型」国家化をめざすというのも方法だろうし、また、移民や外国人労働者を多く受け入れるというのも方法だろう。

 日本人は豊かになりすぎてしまった。いや、本当は格差が拡大していく中で「豊かさ」のイメージを追いかけている人がほとんどなのだろうが。
 もっと貧しくなっても良いという勇気が必要だ。支え合えば大丈夫だという勇気が必要だ。おそらくそのことが逆に子供を産む自由も与えてくれるのではないかと、実は思っている。


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TITLE: 火宅に気づかせたヘボ大臣
URL: http://nyanke.blog.ocn.ne.jp/nyanke/2007/02/post_70e5.html
BLOG NAME: ニャンケのブログ
DATE: 02/12/2007 09:54:02 PM

古い友人からの年賀状メールが届いてから、彼の言葉がずっと頭から離れない。 ※ 謹




発言者: いまのまさし
TITLE: 「プリンセス・マサコ」出版中止
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CATEGORY: ニュース
DATE: 02/17/2007 10:47:31 AM

 「プリンセス・マサコ」日本語版の出版が中止になった。問題は大きい。
 一番の問題はこれが事実上の検閲になってしまったことだ。

 もちろん人権問題としてこの問題を考えることも出来る。一般論として個人対企業の間で同じような名誉毀損事件が起きた場合は、出版社側が良識を持って出版を中止するということはあり得るだろうし、またそれはそれで問題を考えていかなくてはならないだろう。しかし今回は、日本語版出版の直前になって政府(宮内庁)が圧力をかけたのだから、検閲と呼ばれても仕方ないだろう。

 そもそも天皇や皇族に人権はあるのか。

 天皇が人間であることは太平洋戦争後の「人間宣言」があるくらいだから間違いはないだろうが、戸籍も持っておらず、憲法の基本的人権規定に抵触するような「家制度」に縛り付けられている皇族は、日本国民ではない。選挙権も男女同権も認められていない。
 なぜなら、天皇は国民ではなく「象徴」だからだ。
 おそらく「プリンセス・マサコ」で著者のヒル氏が主張したかったことは、天皇・皇族に人権が無いということだったに違いない。皮肉なことである。

 確かにメディアによる人権侵害は非常に深刻な問題であり、看過しているわけにはいかない。インターネットを含めて、理不尽な言葉の暴力から個人が守られる仕組み作りが早急に求められている。
 ただ、皇室、宮内庁、政府には一般の個人を遙かに超えた権力がある。出版された著作に間違いがあれば、それを大きく訴えることができる。名誉を毀損されてもそれを跳ね返す力があるはずだ。それは「公」と「民」の違いでもある。
 著書が出版されてもそこからの反論は十分可能なわけで、この点、講談社の判断は拙速だったと思う。本の中身がわからなければ、われわれはどちらの言い分が正しいか判断のしようもない。
 出版社側はあえて問題のある著作でも出版するべきではないのか。繰り返し言うがこれは個人の問題ではなく「公」の問題だからである。

 ここはいっそ文藝春秋あたりが代わって出したらどうだろう。抱き合わせで批判本も出したら一儲け出来るよ。


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TITLE: プリンセス マサコさまの情報サイト
URL: http://cool.s276.xrea.com/m/
BLOG NAME: プリンセス マサコさまの情報サイト
DATE: 04/08/2007 10:59:22 PM

雅子さまの情報サイトです。

徳仁親王妃雅子(なるひとしんのうひまさこ、旧名:小和田 雅子(おわだまさこ)、1963年12月9日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王の妃。勲等は勲一等、学歴はハーバード大学経済学部卒業。学位はB.Econ.。また、日本赤十字社名誉副総裁。印はハマナス。皇室典範における敬称は殿下。英語、フランス語、ドイツ語に堪能といわれています。
...




発言者: いまのまさし
TITLE: 「おふくろさん」は自由に歌え
CATEGORY: 文化・芸術
DATE: 03/07/2007 08:51:42 PM

 歌謡曲「おふくろさん」の歌詞を勝手に変えて歌ったとして、作詞の川内康範が歌手の森進一に「もう歌わせない」とごねている事件。
 正直言って「大作家」対「国民的歌手」のメンツをかけた意地の張り合いというか、タヌキとキツネのパフォーマンス合戦で芸能ゴシップの一つとしか思えない。ただ、次第にそうも言っていられない問題になったきた。
 JASRAC(日本音楽著作権協会)が、いわゆる改変版「おふくろさん」の使用を一般的に禁止すると声明を出したのだ。http://www.jasrac.or.jp/release/07/03_2.html
「おふくろさん」のご利用について
    2007.3.7
    社団法人 日本音楽著作権協会
    (JASRAC)


利用者各位

 「おふくろさん」(作詞:川内康範氏、作曲:猪俣公章氏)の歌詞の冒頭に保富庚午氏の作とされる歌詞を付加したバージョンについては、著作者である川内氏から意に反する改変に当たる旨の通知がなされており、同氏が有する同一性保持権(著作権法第20条1項)を侵害して作成されたものであるとの疑義が生じております。
 このため、改変されたバージョンをご利用になりますと、川内氏の有する同一性保持権の侵害その他の法的責任が生じるおそれがありますので、ご留意ください。また、あらかじめ、改変されたバージョンが利用されることが判明した場合には、利用許諾をできませんので、ご了承ください。
 これはやりすぎだ。
 JASRACは声明を撤回すべきである。

 これまでもマスコミは川内康範の著作権被侵害というスタンスで、森進一側不利の論調で報道がされてきた。
 そもそも、ぼくは改変されたという部分を聴いたことはないのだが、話によるとライブの際に本歌の前にリードとして別の短い歌を付けているのが問題だという。これはたぶんジャズボーカルで言うヴァースというやつだろう。
 ヴァースと言ってもクラシックやロック、ジャズ、ポップスそれぞれの分野で微妙に意味が違うようだ。もともとは西洋詩の用語のようだが。ジャズボーカルでは本歌の前に導入として付け加える短い歌やフレーズのことを言う。発生の端緒は、ミュージカルの挿入歌を独立したボーカル曲として歌ったところにあるらしい。ミュージカル曲はもともと劇中のセリフもしくはセリフに連動した歌なので、単独の歌として歌うと歌詞が唐突に聞こえる場合がある。そのため観客が感情移入しやすいように、その直前のセリフを語りながら徐々に曲に入っていくという演出が行なわれるようになった。これがヴァースの発端だ。
 この手法が一般化し、後には初めにヴァースが存在しなかった曲にも、あとからヴァースを加えるケースも出てきたようだ。

 押さえておかなくてはならないのは、著作権と言っても、小説の著作権とライブ演奏の著作権を同じ基準で判断することは出来ないという点である。
 小説の著作権の場合、基本的には一言一句変更することが出来ないというのが常識だ。もっとも、それでも旧字や仮名遣いを現代的に直したりすることはあり、ましてや装丁や活字(フォント)などまで含めれば、全て原著者の意向に沿って出版することが出来ているのかどうかは疑問だが(もちろん出版物の場合なら、著者がそういう細かいところまで凝ることは不可能ではないし、実際にそうした著作物はたくさん存在している)。

 しかし、楽曲の場合は相当に問題が複雑だ。
 まず、歌というのはシンガーソングライターでない限り、作詞家と作曲家、編曲家、演奏者、歌手が別個に存在するのが普通である。さらにこれがレコードとして発表されるとなるとプロデューサーやミキサーなどさらに膨大な人々の共同作業となる。著作権者として誰にどのような権利が生じるのか考えるだけでも大変だ。
 今回の事件の場合、ヴァース部分の作曲は本歌を作曲した猪俣公章だから、自分の作品を部分的に手直ししたと主張することも可能だったろう。いかに川内康範がエラかろうと、作詞家だけの権利を一方的に主張することは出来ないのではないだろうか。

 楽曲のケースが複雑な理由はそれだけではない。
 基本的に音楽は書かれたものではなく、演奏されるものだからだ。ライブであるということである。
 演奏家(歌手)は自分の感性で作品を解釈し演奏する。だからアーチストなのであって、スコアの通りに機械的に演奏するのでよければMIDIで事足りてしまうだろう。事実、現在の音楽状況の中にあっては相当の部分が「打ち込み」で作られている。それはそれでよいけれど、やはり演奏家がライブで演奏することが基本だ。
 アーチストがその曲を解釈して演奏するためには、前提的にある程度の自由が認められていなくてはならない。そして、この「ある程度」というところが著作権の侵害に当たるかどうかの境目であり、また文化程度の問題になると思う。

 これは戯曲の場合に顕著である。芝居は演出家の権限が強い。演出しているうちに台本がどんどん変化するというのは、よく聞く話だ。さらにその上、実際の舞台の上では俳優がアドリブを効かせる場合も少なくないだろう。
 こうしたことを脚本家が否定してしまえば、演劇の可能性は著しく狭められてしまい、文化的には後ろ向きの状況になってしまう。

 一般にアレンジやアドリブは認められるべきである。そもそもライブ演奏において絶対的にスコアの通りに演奏できるとは限らない。歌謡曲の場合、テレビなどでは3番くらいある歌詞の途中を抜いて1番から最後のサビまで飛ばしてしまうなどというのはよくあることだ。
 川内センセイはそういうのはかまわないんだろうか? テレビ局のエラい人が決めたことなら黙認か?
 はっきり言ってヴァースはアレンジの一環である。編曲によってイントロが変わるのとどこが違うのか。楽器なら多少フレーズを華美にしてもかまわなくて、歌手が言葉をつけたら不可ということがありうるのか。実際のライブにおいては様々な歌が観客へのサービスなどの目的で本歌の歌詞を変えられて歌われることも良くあることなのに、ヴァースを付けたから著作権侵害だというのは言い過ぎ、言いがかりでしかないのではないか。

 よくは知らないが、訳詞というのはどうなっているのだろう。外国の歌の原著作権者へ自分の作った歌がどういう歌詞で歌われているか、ちゃんと知らせているのだろうか。JASRACはそういう点をクリアしているのか?
 だいたいJASRACは著作権保護の名目の下、小さなスナックなどに対して過酷な著作権料の取り立てを行ってきた。しかも、そこで得た収入がどのように著作権者に還元されているかが不明で、著作者からも疑惑の目を向けられている団体だ。そんな団体がものすごい権力と利権を一極集中で持っている状況で本当の意味で(つまり文化を向上させるものとして)著作権を守ることが出来るのだろうか。

 今、著作権は巨大な利権となっていて、アメリカ型ビジネスの典型となりつつある。著作権期間の延長は文化を守り発展させるどころか、逆に文化の停滞をもたらしかねない。昔、マッド・アマノが白川義員の素材を使ったモンタージュパロディ作品を発表したとき、白川は著作権侵害で訴えたけれど、ああいうことは批判や批評という文化を萎縮させる結果しか生まない。
 著作権をカネだけの問題にしてはいけないのと同時に、自分が望まない形での使用や引用であっても、それを一概に違法視するのは間違っている。作品は発表したときから作者の手を離れ、公共の財産になるのである。それを理解し許容するのが文化人たる表現者のモラルではないのか。

 ホルストは自作の「惑星」について編成の厳守や抜粋演奏の禁止など厳格な規定を設けていた。彼の死後も著作権を継承した遺族がそれを守った。しかし、冨田勲がシンセサイザーによる編曲に大変な熱意を持って説得をした結果、初めてアレンジが許され大ヒットとなる。その後、エマーソン・レイク&パーマーがプログレ化したり、今では平原綾香が歌ったりと、とても間口が広がり世代を越えた名曲と呼ばれているのはご存じの通りである(もっとも平原「ジュピター」は著作権保護期間が過ぎてからの作品らしいが)。
 ビートルズの曲なども、かのマイケル・ジャクソンが権利を買い占めてるのは有名だが(最近は破産危機で売却を検討中らしいが)、昔から本当に数え切れないほど様々なアレンジが行われてきた。中には原曲とは全然違う感じの曲になっているものもある。
 「惑星」にしろビートルズにしろ、作品が良いからこそアレンジをしてやろう、自分なりの解釈をしてやろうという気になるのだ。
 川内康範は言うに事欠いて(?)「森進一が勝手な解釈をしやがって」と発言したそうだ。これが曲の解釈について言っているのなら、自らの作品を落とし込めることにしかならないのである。

 最後に一言。川内センセイ、月光仮面は鞍馬天狗のパクリじゃないんですか…


トラックバック:
TITLE: 曲目リストを更新しました
URL: http://winds-of-guitar.seesaa.net/article/36677990.html
BLOG NAME: ギター(エレクトリック限定)初級者から中級者に捧ぐ
DATE: 04/06/2007 02:59:40 PM

ジャズギタリストや その他の演奏家のための楽譜(譜面)のリストを更新しましたので 再度案内します最後に「案内」のページがありますので 欲しい楽譜が会った人は そちらを覗いて下さいスタンダード曲リスト.pdfジャズ曲リスト.pdfその他曲リスト.pdf全曲リスト.pdf申し込み方法等は下記を参照して下さい案内.pdf人気ブログランキング参加しました。↓ ↓ ↓ ↓...




発言者: いまのまさし
TITLE: 石原慎太郎の大勝利
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CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 04/09/2007 10:39:15 AM

 統一地方選挙の前半が終わった。重苦しい朝である。

 選挙前・中だったので記事を書かなかったが、東京都知事選は何ともすっきりしない感じだった。もっとも、ぼくは都民ではないので投票権は無いのだが。
 いわゆる反石原勝手連の陣営で、浅野氏か吉田氏かという論争が起きて、おそらく今後総括を巡ってもこれが続くのだろう。生産的なこととは思えない。どのみち、浅野票+吉田票でも石原票に届かないのだから、これは完敗と言うしかないのだし。
 ぼくの感想から言えば、アンチをスローガンにするしかない運動が大勝利するような時代ではないということを、如実に示した結果だったのではないかということだ。

 そもそも、石原氏の落選を目指していた人たちの選択肢は共産党か民主党かであったが、しかし多くの人が積極的な共産or民主の支持者ではなかったのである。みんな口をそろえて、本当は好きじゃないんだが仕方なく…どちらかを支持するというのだ。もちろん、自分の気持ちを代弁してくれる候補がいなければ、そしてそれなら自分自身が立候補する、などという決意が出来ないのならば、消去法で候補を選ぶしかない。ぼくもそうした。

 ただ、そこにはどこまで行っても「アンチ」の底なし沼しか存在しないのだ。
 浅野支持者の人は共産党が民主(浅野)に選挙協力しないのが悪いと言う。しかし第三者の立場で見れば、その逆も成り立つわけで、それならなぜ民主党に共産との選挙協力をさせようとしないのか、という話になってしまう。それは勝てないからだという理屈が出てくるが、それを言い始めれば共産が勝てる場面などというのは限られてくるのだから、基本的に共産党は立候補するなというのと同じことになってしまう。

 つまりこういうことだ。消極的支持、消去法的支持というのは、選択肢〜つまり今回で言えば民主と共産の「どちらを支持しないか」という論理なのである。好きなものを選ぶのではなく、嫌いなものを選ぶ回路だ。
 それが悪いと言うことではない。しかしその根底にあるのは結局はセクト主義なのだということを自覚しておくべきである。

 ぼく個人の傍観者的な意見を言えば、元新左翼系学生運動活動家で現在は真性ファシストを自称している外山恒一氏の、選挙制度・国家体制に対してまでも徹底的にアンチテーゼをアジる姿勢の方が、逆説的ではあるけれど「前向き」に感じてしまった。

 ともあれ、埼玉県議会選挙では共産党が大敗を喫し、自民党よりも強力な開発勢力である民主党が大躍進してしまった。とりわけぼくの地元では、実際に自分自身が関わっている現場にとって非常に危機的な結果となった。まったく救いがない。




発言者: いまのまさし
TITLE: メインサイト更新
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CATEGORY: パソコン・インターネット
DATE: 06/01/2007 11:40:22 PM

 なぜか4ヶ月ぶりになってしまいましたが、メインサイトの「WWW極地」を更新しました。




発言者: いまのまさし
TITLE: 上野に行って
CATEGORY: 文化・芸術
DATE: 06/02/2007 01:22:23 PM

 この何年か、美術館とか博物館とかに行っていなかった。というか、映画館にさえ行ってない(白井貴子と村山二朗のライブには行ったけど)。
 この前、久々に美術展を見てきた。「アートで候/会田誠・山口晃展」(上野の森美術館)である。

 会田誠は結構気になるアーチストで、ずいぶん前に本屋で画集をパラパラめくったことはあるのだけれど、エロ・グロ味が強く、そのときは際物かなという気がした。(当時はその辺の路線が流行ってた。あのとき画集買っときゃ良かったな。今はオークションで相当な値段が付いちゃって…)

 それで今回の二人展があるのを知ったので上野まで出かけたのである。
 上野へは子供の頃、一年に何回となく行っていたので、ある種ホームグランドだったのだが、久しぶりに行ってみると微妙に変わっているみたい。

 さて、展覧会の方だが、会田誠にテクニックがあるということは分かったものの、ますますとらえどころのない作者だという感じがした。とらえどころがないというより、まだ自分の表現すべき核心のようなものにたどり着いていないのかもしれない。
 会田誠は既成の(と言うのは80年代以降の)芸術シーンに対する懐疑と反逆を核として創作してきたアーチストなのだろうが、村上隆などがメジャーになってしまった現在、「オタク」的アプローチはもはや反逆の手段たり得なくなっており、そこから先へどう向かっていくのか岐路に立たされているのではないだろうか。
 本人には皮肉なことかもしれないが、サブカルがメインカルチャーに取って代わったが故に会田誠も評価されるようになり、しかしそれが同時にサブカル的手法の限界点となってしまっているのである。

 一方、山口晃にはあまり関心がなかったのだが、こちらは収穫だった。
 山口晃というのは、地域によって放映されていないかもしれないが、AC・日本広告機構の「江戸仕草」マナーCMに使われている絵を描いている人である。日本橋三越の広告の絵も有名。
 これは実物を見てみないと分からないと思うが、非常に細かい筆致で細密に描かれている。この仕事はすごい。
 全く情けないことに、最近とみに目が見えなくなってきて、実はいろいろ眼鏡を換えてみたのだけど、これらの絵をはっきり見ることが出来なかったのが残念だった。

 この人の絵は一言で言えば大和絵のパロディである。しかし、そのイマジネーションがすばらしい。現代の風景、風俗と古い絵巻物や浮世絵のような登場人物や建物が渾然一体となって物語を形成していく。
 この世界はあり得なかった過去であり、あり得なかった未来である。無限の可能性から排除された一つの可能性の世界であり、パラレルワールドである。
 山口晃も会田誠同様、「オタク」的手法を使っているとも言えるが、マニアックなテイストを徹底していくことによって、一つ突き抜けていくことに成功したと言えるのではないだろうか。

 二人展を出たあと十年ぶりくらいに科学博物館に寄ってみた。
 時間が無くて「地球館」の地下しか見られなかったのだが、なんだか昔に比べ展示が分かりづらくなったような気がした。
 現在の展示はモニターなどを使ってとても詳しくつっこんだ説明が聞けるのだが、逆に言うとそれがないと何を意味した展示なのかが分かりづらい。時間をかけてじっくり学ぶにはよいかもしれないが、ただ歩き回っているうちに何となく分かってくるというわけにはいかない。
 昔は良くも悪くも、順番に並んでいる展示を説明文を読みながら見て歩くだけだった。その最中に子供は自分の心の中でいろいろな想像をふくらまし、必ずしも科学的ではないかもしれないが「科学的ロマン」を感じたものだ。
 インターネットを通じて先端的知識を簡単に知ることの出来る現代の子供たちは、そんなことでは満足しないのかもしれないけれど。




発言者: いまのまさし
TITLE: 公務員批判で本質をそらすマスコミ
CATEGORY: マスコミ批評
DATE: 06/07/2007 10:02:14 PM

 不明年金問題がやっとクローズアップされてきた。この問題はずいぶん以前からテレビ朝日が取り上げてキャンペーンしてきたのに、野党がこれを一向に取り上げないので、いささか不審に思ってきたところだった。よほど大きな政局になるなると踏んで、この時期まで待っていたのであろうか?

 それはともかく、やはりと言うか、この問題を「社会保険庁職員の怠慢」に帰着させるような報道をはじめたマスコミがある。ようするに、社保庁は労働組合と甘い協定を結んでいるから職員が仕事をしない、そのためにこのようなミスが起きるのであるという論調だ。
 かつての国鉄民営化のときに、現場職員が勤務時間中にシャワーを浴びていると非難していたのと同じだ。
 労働条件というのは労基法で規定されているのが「最低限」である。もちろん、それ以上の待遇でなければ「ならない」のが、法治国家におけるルールであろう。ところがこの国では、圧倒的多数の民間企業で労基法さえ守られたことがないのである。これは明らかに違法なのに、そうした違法なレベルの労働条件を比較対象にして、公務員批判を繰り広げるマスコミが多すぎる。なるほど憲法でさえ守れない国にはふさわしい。

 問題は社保庁職員の待遇ではない。まったく政治の問題である。
 それが言いすぎだとしても、少なくとも官僚・省庁幹部の問題である。
 問題の本質をすり替えてはならない。

 もっと言えば、年金制度そのものが成り立たなくなっているのだから、本当のことを言えば、消えた年金をいくら探しても本質的解決にはならないのである。
 年金を税金化して、高齢者福祉を国が直接平等におこなうべきだ。そもそも、国民年金と厚生年金の並立によって生じた大きな格差は理不尽であり、早く解消するべきでもある。

 マスコミには、これを機会に年金問題を本質的抜本的に論議してもらいたい。


コメント:
発言者: 竹花
URL:
DATE: 06/08/2007 06:07:55 PM

初めまして。竹花と申します。トラックバックさせていただきました。

仰るとおり、国鉄民営化の時も職員は遊んでいるという話が出ていたのを記憶しています。

私も税金から年金を拠出する方式に賛成です。


コメント:
発言者: たじま
URL:
DATE: 06/09/2007 07:42:44 PM

労働条件を過酷にせよとは申しませんが、以下の記事を読む限り、ラクしすぎと言われても仕方ないですね。いくらなんでも。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/feature/20070605ik0c.htm
「時間内にやるべき量の仕事ができているのか」という点が問題になっているのだと思います。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL: http://homepage2.nifty.com/onami/
DATE: 06/09/2007 09:47:01 PM

コメントありがとうございます。

竹花さま
 社保庁の組合は「仕事していない批判」に屈する形で「残業します」宣言を出しているようですが、社保庁のやり方に問題があったのですから、それを追及して明らかにするのが組合の使命だと思います。労働組合はそもそも労働者の権利を守るための組織であり、もっと毅然とすべきではないでしょうか。戦前の大政翼賛会を思わせて気持ち悪いです。

たじまさま
 ご指摘の記事を読みましたが、これを読む限りアルバイトなどの管理に問題があったということだと思います。正しく仕事がされているかどうかをチェックしていなかったのですね。それは労働組合の問題ではなく、社保庁という役所の問題だと思います。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL: http://homepage2.nifty.com/onami/
DATE: 06/09/2007 10:10:40 PM

 上のコメントへの返信で、ア・プリオリに「労働組合」と書いたので、違和感をもたれる方がいらっしゃるかもしれません。短く書こうとしていつもわかりづらくしてしまいます。申し訳ありません。文意を汲み取っていただけると幸いです。
 上のコメントについては大ざっぱですが、「一般職員=労働者=組合」と読んでください。


コメント:
発言者: ニャンケ
URL:
DATE: 07/16/2007 08:47:28 PM

いまのまさしさんの御説に同意です。
昨今の公務員バッシングは目に余るものがあります。
しかも公務員の労働組合が諸悪の根源のような論調もおかしすぎ。
ところで年金っちゃ積み立て預金なの?税金なの?
強制的に払わされているのに、いちばんおとくなたしかな老後の蓄えって、おかしすぎ。
どっちなんよ、と市役所の年金課のおじさんにたずねたら、うーん、どっちともいえないけど、わたしも年金もらうようになって助かってるんだよ、と人のいいお返事でした。その人は定年退職しても嘱託で同じ職場で働いているという筋金入りの人でしたが、やはり原理的にはそういう人でもわからないものが今の年金制度らしいですね。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL: http://homepage2.nifty.com/onami/
DATE: 07/16/2007 11:41:50 PM

ニャンケ様 コメントありがとうございます。

 社保庁には確かに問題アリアリですが、それを労組の問題にすり替えることがおかしいのです。
 日本国憲法をまともに読めばわかりますが、第28条に【労働者の団結権・団体交渉権その他団体行動権】があえて明記されているのは、資本主義体制を「健全」に維持するためには労働組合が資本と対等にわたりあわなければならないという思想があるのです。こういう思想自体は西欧近代主義まる出しではありますが、実際に現代日本は近代西欧型の資本主義国家なのですから、これは当為と言うべきでしょう。
 労組の本質的機能は労働者の権利の保護と拡大にあるのですから、労組が組合員の労働条件を良くしたことが「悪い」となったら、労働組合の存在意味は無くなってしまいます。

 最近、某強姦殺人事件の裁判において、被告弁護団の活動に対しマスコミが煽る形で大変な非難が浴びせられていますが、弁護人が依頼人を最も有利な形で弁護することは弁護人としての義務であり、それを否定するのは裁判制度自体を否定することになりかねない、つまりは裁判を私的制裁(リンチ)の手段化することにしかなりません。それは国家の暴力の意味を近代以前のレベルに引き戻すことに他なりません。
 労働者の権利を労組が拡大していこうとすることを非難するのはこれと同じことではないでしょうか。

 年金そのものの問題については新しい記事で触れたいと思います。


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TITLE: あえてコムスン責任論に異議申す
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/hideatsu_ishii/48118845.html
BLOG NAME: ☆ ぐ ち ぐ ち ブ ロ グ ☆ _ _ _by 石井英篤
DATE: 06/07/2007 10:13:44 PM

 いくつもの不正行為が発覚して、介護サービス会社コムスンの事業所指定が更新されないことになった。
 経営者の折口雅博は波乱の人生を送ったようで、まさにどん底からの成り上がりであるが、堀江貴文や村上世彰などと似たベンチャー勝ち組の代表格だ。こいつらはみんな法律の隙間をつく非合法ギリギリの博打的錬金術で莫大な富を築いてきたのだが、今回もコムスンを別の子会社に全て譲渡するという「奇策」で乗り切ろうとしている。

 もちろん、こんなやつに介護事業を食い物にされるのは許し難いが、しかし、あえて本当の.....


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TITLE: 国民年金 5000万件の年金記録紛失問題について
URL: http://kamiwadasa1.seesaa.net/article/44491042.html
BLOG NAME: 国民年金
DATE: 06/11/2007 03:56:06 PM

年金記録紛失問題について、政府は基礎年金番号と統合されずに不明となっている5000万件について、来年5月までの1年間ですべて照合する方針ですが、かりに全照合されても、これで全て解決と思っている人が多いのではないか。 ことは、そう簡単ではなさそうですよ。 5000万件全件照合すれば、1年後には未統合のものがゼロと考えるのは間違いで、全件照合が完了したからといって、直ちに未統合が解消するわけではない。ただ、5000万件と統合済みの記録を、氏名や性別、生年......




発言者: いまのまさし
TITLE: 増税じゃダメなのかい?
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CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 07/21/2007 04:21:29 PM

 参院選が佳境に入っている。…はずなのだけれど、台風と地震でなんだか出足をくじかれた感がある。各党とも被災地に対する対策本部を作ったが、なんとなく選挙対策の臭いがして、なんかイヤらしい。

 そうした中一つの焦点は「消費税引き上げ」問題だ。しかし結局のところ選挙を前にして、与党も野党も増税をするとは決して言わない。だが現実に増税しなくて大丈夫なのか。というより、実際には選挙後に増税があるのは間違いない。むしろ問題はどのように増税するかを争点とすべきではないのか。

 前の記事へのニャンケさんのコメントに「年金は税金か積み立てか」という「疑問」が書かれていたが、もちろん現行の年金制度はそのどちらでもない。ご承知の通り「強制加入の保険」が正解である。しかし、保険というシステムは掛け金をかける人が支払を受ける人より多いからこそ成り立つわけで、現在のように年金拠出者と年金受給者のバランスが崩れてしまえば崩壊する。
 だから今後も年金制度を維持するのであれば税金を投入せざるを得ないわけで、今回の選挙でも各党から年金を税金化する様々な公約が出されている。しかし、それとセットで各党とも「増税しません」と言っている(もしくはだんまり)わけで、なんだかなーと思ってしまうのだ。

 もちろん年金受給者への増税は実質的に年金支給額の引き下げと同じことにである。これは将来の受給を期待している現在の拠出者にとっても意味は同じだ。それでもどこかに財源を見つけなくては年金制度自体が維持できないのだから、それが消費税であるかどうかはともかく、誰かしらが負担増になるしかないのだ。
 その際、国のムダを減らせば増税しなくてすむという主張もあるけれど、それはあの小泉路線=小さな政府・民営化・競争原理の導入・福祉切り捨てと、どう違うのだろうか。国家経営にあっては非常な長期的展望が求められるわけで、何がムダで何がムダでないのかを見極めるのは極めて難しい。
 介護保険という悪政も「介護にかかる(総)費用の削減」を目指して導入され、結果として(初めから分かっていたとおり)弱者の徹底的な切り捨てになった。生活保護の支給しぶりで餓死者が続出しているのも、小さな政府の「おかげ」である。
 最々下流の弱者を切り捨てて、「下流」の年金受給者を救うというなどということがあって良いのだろうか?

 最大の課題は「平等の実現」であり、今流の言葉で言えば「格差の是正」ということだ。原爆投下はともかく貧乏はしょうがない。これもいま流行の昭和30年代には日本人はずっと貧乏だった。それでも何とか生きていた。1ドルが360円だったのだ。
 生活水準や医療・衛生の水準が下がることは耐えられないが、しかし、みんなが平等に貧乏になるのなら、何とか我慢していけると思うのだが、どうだろう?

 もうひとつ。

 消費税は上がった方がよいと思う。そのかわり、食料、日用品、教育は無税にする。そのことによって日本経済を沈静化させ、下降させる効果が生じる。そうすれば地球温暖化の抑止につながるし、現在のような過労死地獄は無くなる。もちろん、これは上に書いた、平等化と貧乏化をみんなが良しとすることが前提だけれど。
 冗談だと思う人がいるかもしれないが、おそらく人類が生き残っていくためにはそれしか方法がないと、ぼくは真剣に考えているのである。




発言者: いまのまさし
TITLE: 何で与党なの?キャスターさん
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CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 07/21/2007 04:42:23 PM

 最近テレビを見ていて、大げさでなく吐き気をもよおすことがある。
 ついこの間までテレビのニュースキャスターだった人間が、与党の政治家として出てくるときのことだ。某防衛大臣がいろいろな意味で「颯爽」と道を切り開いているのが、こうした風潮を後押ししているのだろうか。
 もっとも、これが作家だったり、野党だったりすれば、まだそんなではない気がするのだが。

 それはたぶん、政治家とジャーナリストが根本的に違う仕事だからなのだと思う。

 政治というのは与党、野党、もっと言えば弱小集団であっても、基本的に「権力」である。一方ジャーナリズムは基本的に権力を監視する力であるはずだ。だから優れたジャーナリストは右でも左でもなく、「腐敗した権力」の臭いをかぎ分け、そこを痛烈に批判するのである。
 民主主義が(もしあり得るとして)健全に成立するために、表現の自由が絶対的に必要なのは、ジャーナリズムがそのように権力の実態を大衆の前にさらすことができることが必要だからだ。(もちろん、ジャーナリストでない人の表現も制限されないことが必要だけれど。)

 巨大な権力の内側に取り込まれてしまうジャーナリストというのは、一体何なんだろう。


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TITLE: 読売新聞の社説に感服した
URL: http://nyanke.blog.ocn.ne.jp/nyanke/2007/08/post_271c.html
BLOG NAME: ニャンケのブログ
DATE: 08/01/2007 09:59:29 PM

アメリカ下院本会議で、安倍晋三首相の信条を吐露した従軍慰安婦問題免責発言にたいす

トラックバック:
TITLE: 民主党さん、くじけなさんなよー
URL: http://nyanke.blog.ocn.ne.jp/nyanke/2007/08/post_a6ef.html
BLOG NAME: ニャンケのブログ
DATE: 08/22/2007 09:27:55 PM

草加さんのブログを見てたらいまだに口説けない結衣ちゃん(よくよくおいらにはゲーム




発言者: いまのまさし
TITLE: ブログ終了のお知らせ
CATEGORY: 日記・コラム・つぶやき
DATE: 03/06/2008 09:15:16 AM

 当ブログをご訪問いただきありがとうございます。
 さて、突然ではございますが、このほど当ブログを終了、閉鎖することにいたしました。
 そもそも、仕事上の必要性からブログとはどういうものかテストのために立ち上げたサイトでしたが、その目的はほぼ遂げられたと思います。技術的な問題のみならず、ブログ文化というものがどんなものかも勉強させてもらいました。
 ただ、現在のぼくにとっては、ブログ形式のサイトは特に必要なものではありません。人それぞれのスタイルがあるので、流行り廃りに関係なくやっていくのがよいと思います。
 なお、当ブログのログはホームページの方に移動する予定です。



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