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2005年8〜11月

05年1〜6月  05年6〜8月  05年8〜11月  06年  07年

発言者: いまのまさし
TITLE: 暗黒の時代は回避出来ないのか
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 08/12/2005 06:57:09 PM

 60年というのは中国経由の日本文化として定着した一つの区切りの時間感覚である。戦後60年の8月に、東京都杉並区の教育委員会は扶桑社版歴史教科書の採用を決めた。
 なぜこの時期に多くの反対を押し切ってこの教科書を採択しなければならなかったのか。

 10年ほど前に、合衆国のいくつかの州で進化論は聖書の記述と違うから教えてはならないという原理主義運動が巻き起こったことがあった。この時、原理主義者はそれまで名誉職だった教育長に自分たちの仲間を擁立し、組織的にこの非科学的で自己中心的教育「改革」を実行したと聞く。
 その後の合衆国は9.11を経て泥沼の戦争にのめり込んでいった。

 神話から記述が始まるという扶桑社版歴史教科書の採択運動は、この合衆国の動きを連想させる。
 北朝鮮を巡る6者協議においては拉致問題を議題にも出来ず、日本は全く蚊帳の外に置かれてしまった。北朝鮮はともかく、韓国、中国、ロシアからも日本は信頼を得ることが出来ていない。小泉首相は初の訪朝を果たし、せっかく東アジアの緊張緩和へ向けた一歩を踏み出したのに、自らの靖国参拝強行と自民党の改憲論議で事態をまったく逆方向に向かわせてしまった。
 そしてそうした動きに連動した扶桑社教科書採択の動きが、それに拍車をかけている。そしてまた事実として、こうした小泉政権を今多くの人が支持している。

 国益という言葉は好きではない。地球全体が危機的状況に陥っているときに一国の利害に拘泥している場合ではないだろうと思う。しかし、あえて言えばこのような行為は甚だしく国益を冒していると言えるのではないだろうか。

 だが。

 先に書いたとおり、日本の状況は確実にアメリカの後を追っている。これは残念ながら歴史的事実である。
 不況も、犯罪の若齢化や動機のあいまい化も、麻薬の氾濫も、合衆国で大きく問題視されてからおよそ10年で日本でも起こってきた。とすれば、彼の国の姿は未来の我々であるのだろう。
 戦前を生きた人々は、どうともあらがいがたい力によってファシズムが台頭し、戦争の時代に突入したと証言している。映画スターウォーズ・EP3が、あらかじめ決まっている帝国主義の独裁の時代を迎えるしかないように、我々も暗黒の時代の到来を阻止することが出来ないのだろうか。


コメント:
発言者: ジャスティス
URL:
DATE: 08/13/2005 08:34:49 AM

それは、教科書に反対して、集まった団体。
え〜っと、「作る会の教科書反対」の団体が、杉並何とか会だっけ…
正体が、すべて中核派という過激派だったからさ。
ちなみに、君もそうなのか?
もし、そうではなく、真剣にこの国のことを思う気持ちがあるなら…
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html
を、覗いてみるといい。
真贋は、君に任せるが…
わりと当たっているぞ。
ちなみに芙蓉社じゃなく、扶桑社じゃなかったかな?
まぁ、打ち間違いだろうけど…
後、6カ国協議は中国の演出なのを理解しようね。
結局は、茶番劇に過ぎなかった。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL: http://homepage2.nifty.com/onami/
DATE: 08/13/2005 12:12:50 PM

ジャステス様
 書き込みありがとうございます。
 いやあ大変恥ずかしい。打ち間違いです。さっそく直しておきます。
 ご指摘ありがとうございました。

 それと杉並だからみんな中核派というのも、ちょっと違うと思いますが。拠点ではありますけどね。ちなみに、ぼくは中核ではありません。また中国派でもありません。毛沢東は少し読みましたが。

 仮に6カ国協議が中国の演出であったとしても、日本が孤立化しているのは現実でしょう。そういう状況の中で展望をどう作っていくのか、という問題提起です。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL:
DATE: 08/13/2005 12:20:23 PM

失礼しました。 ジャスティスさんですね。また打ち間違った。(汗)


コメント:
発言者: ジャスティス
URL:
DATE: 08/13/2005 04:03:38 PM

いや、大変失礼なことを聞いてしまった。
平和主義なんだね。
杉並で反対しているすべてが、中核派じゃないと思ってはいたさ。
ここを見たら、そうだったのかと思えるよ。
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50002309.html#top
突撃レポートだからさ。
6カ国協議は、中韓露がカッチリ、スクラム組んで、北朝鮮を擁護しているわけ…
こいつらは、日本は黙って、金だけ出しとけっていう態度。
日本が、包括的な問題処理をしようと正論を言っても、聞く耳を持たない。
なら、日本は、正論を言い続けるだけじゃないだろうか?
結局、13日(だったっけ?)もかけて、何も結果は出なかった。包括的に問題を処理しなかったからだ。
協議は、決裂であるのに、中国は面子のためか、休会というウルトラCで、乗り切っている。
孤立は、問題じゃないと思う。
日本は、何もできなかったじゃなく、何もしなかった。という事では、ないだろうかな?
共同文書では、妥協したようだが…
茶番の協議に、お付き合いしただけと言えるのじゃないだろうか?
だから、気にすることはない。
茶番は先が見えている。
ちょっと、長くなったが…スマソ。
PS.打ち間違いは、よくあるので、気にすることはないです。


コメント:
発言者: いまのまさし
URL:
DATE: 08/14/2005 07:52:43 AM

いろいろご意見ありがとうございました。
トラックバック:
TITLE: この毎日新聞の見出しのつけ方は恐ろしく「衝撃的」である。いや、間違えた「笑撃的」である。(爆笑)
URL: http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2005/08/post_7bd1.html
BLOG NAME: 雑談日記 (徒然なるままに、、。)
DATE: 08/19/2005 09:28:34 AM

 今まで、投稿の中で、末尾紹介の森田実さんの記事をご紹介してきました。でも、いく


トラックバック:
TITLE: 自民党が推すホリエモンについてのナルホド。
URL: http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2005/09/post_269b.html
BLOG NAME: 雑談日記 (徒然なるままに、、。)
DATE: 09/04/2005 07:32:05 AM

ブログ「道化師のソネット」より Before「選挙にはほとんど行ったことがありま


トラックバック:
TITLE: 郵政民営化とは本当は何なのか − 公社分割と株式売却の中身(なるほど、キーワードはホリエモンだ)
URL: http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2005/08/post_846d.html
BLOG NAME: 雑談日記 (徒然なるままに、、。)
DATE: 09/04/2005 07:33:19 AM

「世に倦む日日」より。http://critic.exblog.jp/33859




発言者: いまのまさし
TITLE: RSSリーダーのお薦めは?
CATEGORY: パソコン・インターネット
DATE: 08/14/2005 11:10:33 PM

 先ほど古い友人が酒を飲んで電話してきた。BBSやブログのことなどを話したのだが。

(どうでもよいが、今サブマシンのWindowsアップデートをしたら、またもや画面がブラックアウトしてしまった。もう本当に、どうしてこうもひどいのか。リナックス環境に変更することを真剣に考えるべきなのだろうか。)

 さて、ブログを購読するとき役に立つのはRSSリーダーと呼ばれるソフトである。
 RSSリーダーと言ってもさまざまなタイプがあるが、形態から言えば、WWWブラウザ一体型、メールソフト型(3面スタイル)、アラーム型などがある。
 ぼくが今使っているのはタスクトレイに常駐して定期的にブログが更新されるのを監視し、更新があった場合に教えてくれるタイプのもの。
 しかし、現在のソフトでは新たな記事が投稿されたときだけしかアラームが表示されないので、コメントやトラックバックがあってもわからない。そうなると結局手動で各ブログを巡回するしかなくなるのだ。
 どこかにそういう細かいところまで監視出来るソフトはないものだろうか。知っている人がいたら教えて欲しい。

 なお、ちなみに先ほどの友人と話していて話題にしたのだが、2ちゃんねるを読むのなら、やはり専用ブラウザで読む方が楽だし便利である。検索して捜してみて下さい。




発言者: いまのまさし
TITLE: 低脳化した?日本人
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 09/08/2005 05:26:37 PM

 行政の長であるはずの総理大臣が、行政機関をコントロール出来ない自らの無能ぶりを悪びれもせず公言し、しかもそれを理由に行政機関を民営化するとして前代未聞のメチャクチャな「郵政解散」を強行、役所であるうちでさえコントロール出来ないものが民間を名乗るようになったら、ますます暴走するだろうに。
 ところが、その自民党が圧勝すると言われる現局面。テレビでは与党党首が「改革の旗手」を標榜して、ノーテンキな時代劇仕立てのCMで「そうはイカンザキ」などと意味不明のフレーズを叫んでいる。頭が割れそうだ。

 何ともしれない息苦しさと違和感を感じる。そうこれはファシズムの臭いだ。ポピュラリズムに乗っかった独裁者。もちろん現在の小泉首相がヒトラーのような「本物」のファストでないことは承知している。ファシズムは強力な組織の上に成り立つのだから、組織を嫌う小泉氏の方向では「本物」にはなり得ない。しかし、こうした政治手法が定着するきっかけになるとしたら、現在の状況は非常に危険と言わざるを得ないだろう。

 こうした小泉自民党を都市住民や若者層が支持している。従来で言えば革新系の強い地盤が与党自民を勝利させようとしている。まさに衝撃的な事態だ。
 一部には、こうした事態を生み出している原因のひとつに"2ちゃんねる"に代表されるネット上の右派勢力の存在を指摘する声もあるが、ぼくにはそれが主因とは思えない。問題はもっと深刻なのではないだろうか。

 今一番問題なのは、そして最も違和感を感じる部分は、小泉氏が改革断行派であり、革新系党派があたかも守旧派のごとく色分けされているところである。
 もちろんそこには「社会主義への道」を投げ捨て、自民党と連合し、保守勢力に迎合した社会党=社民党の変節や、狭隘なセクト主義的体質から脱却出来ない共産党、組合主義に埋没する新社会党など、革新系党派自体の「保守」的傾向が、そうしたイメージを増幅しているという問題もある。
 しかしそれにしても、そうした各党派の問題は今に始まったことではないし、それでも「革新」は革新だった。やはり変わったのは大衆の意識の方なのである。そういえば一見こうしたねじれはソ連崩壊時の事態に似ているが、おそらくそれともちょっと違う。

 たぶんポイントは2点ある。二大政党制化と「改革」の意味のすり替えである。
 二大政党制を誰が言い始めたのか忘れたが、多元的社会、価値観の多様化が叫ばれる時代に、それが時代に逆行するものであることは明らかであった。しかし、人々がこうした流れに乗ってしまった背景には、より簡単でわかりやすい生き方を求める風潮があるのではないだろうか。
 自分の頭で考えること、多様な価値観の中から自分の判断で何かを選択することは大変なエネルギーを必要とする。しかしそうした訓練を受けることなく、なんでも○×で決めていくマークシート型教育が横行し、勝ち組・負け組などという非情な概念で世の中を見ることを求められる社会に生きる人々は、二者択一のギャンブル政治でかまわない、その方が楽ちんだと思っているのではないのか。政治はテレビのクイズ番組じゃないのに。
 日本人の頭は確実に単純化し、働きが悪くなってしまった。そしてそれは為政者が目指してきたことでもあったのである。

 だいたい改革というのであれば、改革指向の度合いが強いのは社・共の方に決まっている。それを小泉氏の方が改革派であると思ってしまうほど、人々の判断能力は低下しているのだ。(もっとも「頭のいい人」が自覚した上でプロパガンダをやっている場合も多いだろうが。)
 小泉自民党と造反組、民主党などの間で戦わされている「改革論議」など、ほとんど枝葉末梢における論議であり、結局のところ「小さい政府、官から民」というスタンスに変わりはない。それはつまるところアメリカ合衆国型の国家建設を目指すという点で一致している。それが対立しているのは、それぞれの勢力が背景にしている資本家層・グループの利害が微妙に異なっているということにすぎない。
 社・共が目指すのは(本音はともかく主張的には)、ヨーロッパ型の福祉国家から社会主義、共産主義社会までの範囲に渡る抜本的な社会改革であり、もし本当に日本社会を改革したいと思うのなら、選択肢は革新系党派しかないのである。
 しかし、有権者の「改革」意識はけっしてそこまで到達しない。乗っているクルマに不満があるのだが、結局違うクルマに買い換える勇気はなく、ちょっと色を塗り替えてみるだけにしてみる、せいぜい何ヶ所かの部品を交換してみるという程度のものでしかないのである。ようするに「チキン」なのだ。
 そして多くの人が、とりわけ現在の社会に大きな不満を持ち、改革を望んでいるつもりの若者たちが、自分が「チキン」であり「ぬるい」ことに全く気づいていないのである。

 日本近代史上、社会が大きく変化するときには、多くの場合、若者たちが体を張って前に出た。良いか悪いかはともかく、明治維新でも、2・26事件でも、安保闘争でも、阪神淡路大震災でも、若者が自分自身の実践で世の中の流れを変えようとしたのである。もっともそれはまた、ほとんどの場合、大人社会に巻き取られるか潰されるかして「敗北」した歴史でもあるのだが。

 若い世代が自ら立ち上がることもなく、雰囲気だけで「改革派」小泉を支持してしまうという事態は何故起こるのだろう。若い世代のリーダーがいないからだ。
 先に挙げた歴史上の様々な事件においては、若いリーダーがアジテーションして、同世代かより若い世代を決起させていった。しかし、現在そうした強力なリーダーシップを持った若者はほとんどいない。しかたなく(?)若い世代も小泉氏のような「年寄り」を信奉してしまうのである。
 それではなぜ今若い世代のリーダーがいないのか。ぼくらの世代、つまりポスト安保世代が何も出来ずにきたからだ。

 本来ならぼくらの世代が前の世代から夢を引き継ぎ、次の世代にバトンタッチしなくてはいけなかったのに、ぼくらの世代は学生時代からの3無主義であり、軽佻浮薄なバブル世代で、政治や社会に関わることは「ダサい」ことであり「ヤバい」こととして避け続けてきたのである。
 こうして若者は時代を牽引する力を失っていった。

 さて、改革というのは本来、今あるものを「よりよいもの」にするという意味であろう。「よりよいもの」という価値観は、どこかに理想を設定しその方向性を目指すというスタンスが前提されている。それでは何を理想に置くのかということである。
 小泉「改革」も改革であるには違いないだろうが、それがまやかしの改革であり、年寄りの主張だというのは、何を目指すのかということの問題である。簡単に言えば「私(たち)のため」を目指すのか、「(誰か)他者のため」を目指すのかという問題である。

 先の例で挙げたような歴史的な若者たちの行動が「若者的」だというのは、まさに「他者のため」に立ち上がったという点が決定的だ。自分の利害ではなく、より大きな公共性において考え行動すること。それはたぶん有史以来の人間の普遍的価値観だったろうと思う。神話から始まって自らよりも共同体を優先させる物語はいつの時代にも人々に歓迎されてきたのである。しかし、われわれの世代はそうした価値観を次の世代にうまく引き継げず、現在の若者はこれを歪んだ形で受け取ってしまった。
 まさにこの歪みこそが、弱肉強食の世界の実現を「改革」と呼ぶ小泉氏への支持拡大や、ナショナリズムの台頭として表出してきたと言えるだろう。ただ、すでにかなり冗長になってしまったので、ナショナリズムの問題については、また別の機会に論じたい。

 ともかくも、問題を深く考え、自分のオリジナルな意見を持つことより、クイズのボタンを押すような感覚で気楽に「勝ち組」の方に入ろうとする現代日本人の「脳」力は、相当に落ちてしまったと、思わざるを得ないのである。


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TITLE: 自由は死んだ、万雷の拍手の中で。
URL: http://yogozansu.way-nifty.com/everyday/2005/09/post_437b.html
BLOG NAME: 愛と革命のために
DATE: 09/12/2005 06:41:23 PM

「自由は死んだ。万雷の拍手の中で」 共和国元老院の最高議長パルパティーンが「銀河


トラックバック:
TITLE: 自由と民主主義
URL: http://miyau.cocolog-nifty.com/sozoro/2005/09/post_dfcd.html
BLOG NAME: そぞろ日記
DATE: 09/19/2005 04:56:45 PM

この国で長年与党を続けている「自由民主党」。 総選挙後、郵政民営化反対議員たちの




発言者: いまのまさし
TITLE: 自民党圧勝・・・
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 09/11/2005 09:12:38 PM

 テレビ局各社の選挙速報が出た。予想通り、というか予想を上回る自民党の圧勝と言うことになりそうだ。ごく地域的な利害関係からいくと自民に勝って欲しいという部分もあるのだが、まあそういうところに限って期待が裏切られるということになるだろう(笑)。

 さて、現行制度の中では民主主義を認めるしかないし、多数決で人々が小泉自民党を支持したのだから、これはいたしかたない。そんなに皆な現在の政治に満足しているのだろうか。よくわからない。

 前回も書いたのだが、日本人はものを考える力を相当失ってしまっているのだろう。単純なこと、白か黒かという○×式の軽いノリでしか判断出来なくなったのだと思う。
 小泉氏の政策を指示するということは、それはつまり現在のアメリカ型社会が良いということで、多くの人々がアメリカ合衆国日本州であることを望んでいるのだとも言える。
 そして、私たちはそういう人々の社会で生きていかなくてはならないのである。
 昨日のアメリカが明日の日本である。エカテリーナ・ハリケーン災害の悲劇を見てもわかるように、ひとつの国の中に先進国と後進国が同時に存在し、ひとたび混乱が生じると銃を持っていなければ外出も出来ない、そうした国にやがて日本もなっていくであろう。
 できることなら脱出したいところだが、下層階級である私にはそれすら夢の話に過ぎない。

 小松左京原作の「日本沈没」が再映画化されるそうだ。1970年代の「日本沈没」はエドガー・ケイシーの1998年に日本が沈没するという予言にインスパイアされたのだろうと思うが、日本人が日本というアイデンティティを失ったときどうなるのかというシュミレーション小説として書かれ、映画は防災体制の不備を警告するものとして描かれていたように思う。(ちなみにヒロイン役のいしだあゆみがとても魅力的だった。)
 当時、日本は高度経済成長の最盛期で、田中角栄の列島改造論など今考えれば無茶苦茶としか思えない乱暴な「改革」が推し進められていた。誰もが永遠の右肩上がりを信じ、日本が沈没するなどということは笑い話だったからこそ、逆説としての「日本沈没」がヒットしたのである。
 しかし日本は本当に沈没してしまった。永遠の成長を前提にした前時代の負債を今われわれは大量に背負わされているのである。

 未来について冷静に考え、なにかしらの展望を持った選択をすることは、人間には不可能なことなのかもしれない。




発言者: いまのまさし
TITLE: 本当の問題はどこにあるのか
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 09/15/2005 10:26:56 PM

 あまりの自民党圧勝に大変なショックを受けたが、少し落ち着いてこの選挙結果の問題について触れてみたい。
 今回の選挙では自民党が衆議院の過半数を占め、与党連合で2/3を確保したことや、民主党が惨敗したことなどが指摘されているが、多分一番問題なのは、自民党の再編ということだと思う。
 自民党はそもそもその名の通り、自由党と民主党の連合党として成立した。いわゆる保守合同である。また、その後も派閥という形で多くの集団を抱え込んできた。
 実際、自民党の中には、これが同じ党の党員かと思うほど違う意見の人が混在している。軍事や平和、経済、環境、公共事業など、意見は千差万別というほどである。また人格的にも悪辣で矮小な人から高潔な人まで、いろいろな人がいるようだ。
 ぼく自身は基本的な考え方の点で自民党を支持しないが、個人個人のレベルでは信頼できる人もいると思っている。

 さて、今回の総選挙で争点となった小泉改革は、実は郵政民営化だけではない。その後ろに隠れて自民党自体の大改造も行われたのである。それは言ってみれば、連合党から単一党への転換である。
 今回、郵政法案に反対した党員に対して「刺客」と呼ばれる強力な対立候補を立てて、徹底的に潰しにかかり、さらに今後、除名処分も行われるという。いわば党内の大粛正が進行しているのだ。確かに共産党のような単一党においては、党の方針に服従せず反旗を翻した者に厳しい処分を科すのは不思議なことではなく、当然のこととして行われるが、緩やかな連合党であった自民党では、その辺はあまり厳しく行われてこなかった。派閥のパワーバランスの問題もあった。
 ところが今回の小泉総裁の「非情」と言われる方針は、一気にこうした党内の雰囲気を変えてしまったであろう。この辺にヒトラーやスターリンの面影を見る人も多いことだろう。

 これまでなら、仮に自民党が過半数を取ったとしても、党内のバランスによって必ずしも総裁の思い通りに事が運ぶとは限らなかったのだが(その最後の例が参議院での郵政法案否決であった)、もはや小泉氏の「恐怖政治」の前に、自民党内では皆が身をすくめ、小泉氏の党内独裁体制が固められてしまったのである。
 このことが今回選挙での最大の問題点だと思う。
 もし選挙で自民が敗北していたら小泉氏は辞任することになっただろうが、僅差での勝利であったとしても、小泉氏の影響力はここまで大きくはならなかったと思われる。
(ただし、実際の小選挙区の得票総数で見ると、自公が49.2% (議席数227)であるのに対し、その他の合計が50.8%(議席数73)で、本当は与党が負けているのであるが。小選挙区制の数字のマジックと言えよう。)

 とにかくも、このように派閥を無力化させ、小泉単一党として自民党が「再生」してしまったことが、今回選挙の「キモ」である。この勢いは、たんに自民党が過半数を取ったという以上の影響があるだろう。もはや日本の政治は小泉純一郎という一人の男の意思で大きく動かされてしまう危険性をはらんだのである。果たして今後、小泉首相はどこまで独走するのだろうか。

 本当の意味で民主主義を成立させるためには大統領は不用である。二大政党制も小選挙区制もいらない。多数決がイコール民主主義ではないのだから。




発言者: いまのまさし
TITLE: 自分では使う機会のないネタだけど
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 日記・コラム・つぶやき
DATE: 10/03/2005 07:16:41 PM

 いわゆるネタです。ネット上では結構有名みたいですが。

ゼンリン地図
http://www.its-mo.com/emmctl.htm?ENC=
F%2FQ7kgQ9cDvge7Hl%2BWeh4
V8PDOBOrrV%2FnsjsNoLznKJU
voCfbK8ZP8rRxd0eSCkdbCh8p
%2B4tlMDU%2FCGTc8KATdbNfI
jak%2BFtvBtyPnwAx6jcO1edr
4AXVL81TIOayTwVX9GZKXkRWL
025PahA80pbT2emcRGS0%2FU%
2FGHqUNvjhMc%3D
 拡大していくと何かが見えます。

 ・・・
 で、答えは下のサイトにあります。

http://www.soraji.com/

 ・・・
 それだけのことですが、何か?


*注釈:当時上のリンクをたどっていくと「世界でいちばん君が好き」という言葉が現れてきました。これは東京都昭島市にある個人経営の会社の社名だったそうです。




発言者: いまのまさし
TITLE: ネットの運営、ファンクラブの運営
ALLOW COMMENTS: 2
CATEGORY: 白井貴子
DATE: 10/14/2005 11:56:46 AM

 白井貴子さんのファンBBSが少々荒れ気味。
 問題になっていること自体は、ぼくは論議されても良いことだと思うが、それはぼく自身が、ある程度ネット社会で練られているからそう言えるのかもしれない。
 ネットで多少もまれていると、論争になるのは日常茶飯事で、むしろそれが民主主義じゃないかと思ったりするようにもなる。(それで以前手痛い目にあった。)
 しかし考えてみれば、それも日常生活から言えば次元の違う話として成立する側面もあり、「普通」の人はケンカしながら合意することは出来ないわけだ。アクセスしなければすべてキレイに関係を断ち切れるネット空間ならではのコミュニケーションのあり方は特殊である。
 まして、意図的な荒らしとなれば真逆に民主主義への敵対であり、そうした境界も実はあいまいだ。

 ネットで難しいのは「顔」が見えないと言うことで、怒っているのか冗談なのか判断出来ないこともしばしばだ。
 「空気を読め」という言い方は嫌いなのだが、やはりネットではTPOが大変重要となる。そこに出入りする人がどういう人たちであるのかを考えて書き込みをしないと問題が生じるだろう。
 特にパソコン通信の時代のようなネチケットが廃れてしまった昨今では、ネットでは何をしても良いという風潮で、それに対する防衛という意味もあるのだろうが、BBSにメールアドレスやURLを書かないのが普通になってしまった。
 こうした状況では管理者が不適切発言を削除する際、書き込み者に通告することも出来ない。いたずらにトラブルを広げる一因にもなっている。

 不適切発言というのは、必ずしもその発言自体が問題だというわけではない。
 その発言に誘発されて議論が生じ、BBSが荒れる可能性がある場合も、その場においては不適切ということになってしまうこともある。管理者としては「安全」な方向に対処するのは当然であろう。
 しかし一度発言削除がおこなわれると、それに対する反発が生じ、極端な話、批判と削除がくり返されて、最悪サイト閉鎖ということになりかねない。

 ぼくの持論だが、ネットの匿名性を利用するのは本当のギリギリのところで判断すべき事であって、何でもかんでも個人情報保護だというのは間違いだと思う。ネットは公共空間であり、発言には責任とリスクが伴う。最低限、ちゃんと連絡の取れるメールアドレスを明記するのが当然であろう。
 さらに誰でも簡単にブログが作れる環境にあるのだから、自分の意見は自分のサイトに書くのが一番良い。そうすれば本体のBBSにURLを書き込むなりして読者を誘導することができるだろう。それならばサイト管理者も直ちに発言削除などということをしなくてすむ場合もあるだろう。

 荒れるか荒れないか、というより、それを荒れていると見るか見ないかは、そのサイトの性格の問題であり、一般的な基準があるわけではない。自分の空間で好きなように意見を表明し論議すればよいだろう。それを嫌うのでは他人のサイトに書き込む資格もないと言うものだ。

 それはそうとしてもうひとつ、白井さんのところのような個人経営のアーチストに対しては、少なくともファンならばもう少し寛容であっても良いのではないかとも思う。
 白井さんがファンクラブを無料にしているのは、おそらくコストをかけられないからだ。もし有料会員制にすれば、会員管理を厳密にしなくてはならずコストがかさむ。また、一種の売買契約と言うことになって、会報を定期的に出すというような義務が生じざるを得ない。これも個人経営でやっていると負担も大きく、あえて言えば質も低下するおそれもあるだろう。
 はっきり言って、人もカネも時間も割ける大会社ならともかく、費用対効果では全く割に合わないはずである。大人なんだからそのくらい分かってやれよ、と思うのだが。

 その上で、さらにもう一言。
 ファンというのは自分にとって「こうあって欲しい」姿をアーチストに投影するわけだが、アーチストがアーチストであるのは、その人が誰でもない独自の感覚を持つからに他ならない。こうあって欲しいとファンが望むのは当然と言えば当然だが、彼(彼女)がそうならないからと言って文句を言っても、全くどうにもならないのだと思うのだが、どうだろうか。
 あえて言うが、アーチストは常に現在を生きているのであって、その意味で現在の彼(彼女)を受け入れるべきであり、そうでないならば自分だけの思い出の中にアーチストをしまっておけばよい。それだってファンのひとつのあり方だろう。
 だけど、ひいきの引き倒しというのは、どうにもいただけないのである(ちょっと言葉の使い方が間違ってるかもしれない、ご勘弁)。




発言者: いまのまさし
TITLE: 人の死と移植医療、そして献体
CATEGORY: 日記・コラム・つぶやき
DATE: 10/15/2005 08:48:40 PM

 今日は某大学歯学部のキャンパスに行って来た。献体の会の懇談会があったのだ。
 献体というのは、自分が死んだ後、体を医学生の解剖実習のために提供することである。
 母が20年ほど前に献体の会に入会し、その後父も入会、ぼくも昨年やっと入会した。献体希望は若いときには登録出来ないのである。というのも、基本的に全ての家族の同意が必要であり、新しい家族が出来る可能性が高い時期には断られてしまうのだ。

 正直言って、ぼくは臓器移植にはあまり賛同出来ない。必ずしも全ての移植医療に反対というわけではないけれど、ドナーカードは持ったことがない。(もっとも、そもそも医学教育に献体する人は、いかなる臓器提供もできないのだが。)
 理由のひとつは人間の臓器を機械のパーツとしてとらえ、相互に交換可能と考える考え方には違和感を感じるということ。もうひとつは「脳死」を人の死としては認めがたいからだ。
 死とは何かということが問題なのである。
 医学的、生物学的に言っても、どの時点をもって死とするのか、厳密に考えれば考えるほどわからなくなってくる。それは当然で、この宇宙は基本的にアナログな世界であり、全ての事象は連続しており、ある事象が別の事象に変化する瞬間を特定することは大変難しいことだからである。
 だから人の死を恣意的に法律で定めるしかなくなるわけである。
 それでは死というものはそんなにもあいまいなものなのか、と言うと、そういうわけでもないと思う。

 死というのは、実は医学的なものでも生物学的なものでもない。法学的なものとも少し違う。むしろ宗教的、というか、文化的なものなのである。
 人が死んだという認識は文化によって違ってくるものなのだ。たとえば日本では一般的に人が死んだとき、通夜をやり、葬儀・告別式をやり、四十九日法要をしたりする。これは人間が肉体的に滅んでも、まだ完全に死んでいないという思想の表れである。香典袋に霊前と書くのか仏前と書くのか、迷う所以だ。
 そう言う意味で、現代欧米文化の「科学的に正しい」死の概念を持ち込んできても、それが本当に正しいこととは言えないと思う。

 だいたい現在の医学界は移植医療に偏重しているのではないだろうか。
 どこから始まったことか知らないが、移植医療が時代の花形となり、そうであるが故に地位と名声と資金と人材が移植医療に集中しているという気がしてならない。何だか今の世の中は臓器移植でなければ命を救えないという風潮があるのだが、そこにつぎ込まれた力が別のところに注がれていたら、もっと違う医療の世界が築けていたかもしれない。
 臓器移植が唯一の正当性を持っているわけではないのだ。

 ともかくも、こういう世の中であっても医学生に育ってもらわなくてはならないし、優秀な医師が世の中にたくさん出て欲しい。その意味で、献体はなくてはならないものであって、死んでしまった後にでもささやかな社会貢献をしたいと思うのである。
 ひどい医者も多い。もしかしたら自分の体が悪徳医師を育てるために使われるかもしれない。悲しいことだがそれでもしかたがないのであろう。最近は全くしていなくて恥ずかしいのだが、献血も同じ事だ。かつて左翼の仲間たちはミドリ十字や薬害エイズ問題を見て、献血をしても悪徳製薬会社の利益にされるだけと冷めた見方をしている者が多かった。
 確かにその通り。
 しかし、それでも日本に必要な血液を海外から輸入しているという現状を考えれば、自分たちが献血するしかないのである。(それにしても、あの成分献血の長時間拘束はなんとかならないものか。とりわけぼくの場合、血管が細いのか成分献血そのものが結構苦痛である。血を直接抜かれるだけならなんてこともないのだが。)

 ただ救いなのは、こうして直接大学に出かけていって若くはつらつとした歯学部の学生を見ることが出来ることで、未来の医師というよりも現在の彼らの勉強のためになるのなら、解剖されるのも悪くはないと思えることである。




発言者: いまのまさし
TITLE: 勇気か蛮行か 〜 もう一度ネットについて
CATEGORY: パソコン・インターネット
CATEGORY: 白井貴子
DATE: 10/18/2005 12:18:49 PM

 先日アップした白井貴子カテゴリの "ネットの運営、ファンクラブの運営" に対して、白井ファンとは全く違う人から反応があった。
 確かにこうした問題は、一般的なネットの問題である。そう言う観点から先日書き残した点を補っておこうと思う。
 勇気と蛮行の違いということである。

 インターネットのサイトというのは、ある種の権力である。
 最近はあまり原則論について語られることはないが、インターネットという思想は中心のない無権力・自主管理の「バーチャル」な社会を目指してきた。基本的に参加者が自覚的に自己管理することが前提であったはずだ。
 問題はそうした自覚がいつの間にか失われて、ただの通信インフラとしか認識されなくなってしまったところにある。参加者がインターネットを作り支える主体であることを忘れ、誰かの提供するサービスを享受するただの消費者に堕してしまったのだ。
 インターネットが軍事目的を脱し、新しい時代の新しい社会モデルを目指した頃、それは自由と平等を実現しようという誇り高い運動だったのだが、一方いつか悪の横行する無法地帯になるという悲観論もあった。残念ながら結果としては後者の意見が正しかったように見える。今やネットは、犯罪が横行し、悪意と憎悪の蔓延する世界となってしまった。

 こうした状況にあって、サイトを運営し主体的にインターネットに係わろうとする者は、サイトの管理を強化せざるを得なくなったのだ。一方で、ネットへの主体的参加、自己規制・自己管理を前提としたところの、全面的な発言の自由や匿名性の容認といった「理念」だけは、未だに「消費者的」ネット参加者にも神話的に信奉されているから、事態は複雑である。
 もはやサイト運営においては、理念を守りきることは出来ず、権力を持って進めざるを得ないのだ。色々な意味で、サイト管理者はサイトの神でなければならなくなった。

 さてそうした中で、当然「神」に対する反発が生じてくる。先の記事で言えば、発言削除とそれに対する反発というような事態である。
 この場合、反発する者は(少なくとも主観的には)反権力のヒーローだ。サイトの権力に立ち向かう正義の味方という気分なのである。「自分が叩かれても、BBSが荒れても、覚悟の上で書き込みをする」と”勇気を持って”、正論を展開する。
 しかし、正論ならば良いのかという問題は常について回る。

 荒れることを前提にした書き込みは、サイトの側から見れば「荒らし」と同じ蛮行である。そして、荒らし目的の書き込みを削除するのは、むしろ管理者の義務でさえあるのだ。
 一般的には、BBSが荒れればサイトは衰退する。穏健な参加者は引いてしまうし、初心者は寄りつかなくなる。最後に残るのは2ちゃんねるでも生き延びられるような猛者だけになってしまうのだ。
 もちろん、そうしたサイトがあっても良い。各サイトの価値観はそれぞれであるべきだ。
 しかし、例えば白井貴子のサイトなどは商業目的のサイトである。営業、宣伝のために運営されているのだ。そうしたサイトでは、例えば初心者専用ボードのようなものを別に作ってあるのならともかく、場が荒れてサイトが衰退してしまえばBBSを開設している意味自体が失われることになってしまう。
 書き込む者の主観がどうであれ、こうした書き込みはサイトに敵対するものというしかない。

 したがってサイトに書き込みをする場合、本当の初心者で判断のつかない人ならともかく、ある程度の経験を積んだ者であれば、必要以上の配慮をしなければならないと思うし、それをはずしていたら発言削除等の処分を甘んじて受けるしかない。
 それ以上のことを言いたければ自分のサイトで発言するべきなのである。しかし当然その場合は、自分自身がサイトの神として振る舞う権利があるし、また嫌でもそうしなければならない。それがサイトの公共性を保持する責務というものなのである。
 誰かのサイトに自分の発言の自由を要求出来ることが公共性なのではない。自分のサイトにおいて、そこを利用し参加する人の権利と自由を守ることが公共性である。そしてその利害が対立したときに(先の事例で言えば、BBSが荒れるであろう「正論」が書き込まれたときに)、その発言が全体の利益にとって有用かどうか(初心者も利用しているファンサイトの目的を完遂出来るかどうか)を判断し、(発言削除などの)適切な処置をすることが、運営者の義務であり公共性を保持する行為なのである。

 もちろん、本来であれば発言削除などの処分をおこなう場合、発言者に説明、通告するなどの丁寧な対応ができれば一番良い。しかし、前の記事でも書いたとおり、現在メールアドレスなどを書き込む人が極端に少なくなってしまっている現状では、そうしたこともなかなか難しくなってしまった。
 理想を言えば、この記事の前半で書いたようなネット参加者の自覚と成熟があれば問題は解決するのだが、実際上はネット参加者の質が逆に年々悪くなっているというのが実状である。
 勇気と蛮行の区別は、本来参加者が持つべきものである。しかし、その区別をつけられない参加者がいる以上、管理者が判断するより他に方法はないのである。




発言者: いまのまさし
TITLE: DVDの値段
CATEGORY: 映画・テレビ
DATE: 10/25/2005 08:07:11 PM

 このところセルDVDの価格が急激に安くなっている感じがする。
 安くなっているのは洋画ソフトである。著作権(かどうか詳しくないけど)などの権利関係がフリーになった映画なのかもしれないが、500円DVDが書店やホームセンターなどに置かれている。
 一般のメーカー品でも980円から1500円程度の廉価版が増えていて、こうなってくると、もはや音楽CDよりも安い。

 先日ちょっと驚いたのは「ヴァン・ヘルシング」が正規価格¥1565で売られていたことだ。まだ公開からそんなに経っていない映画である。この作品の場合、先行発売されているものは3千円代であるが、特典ディスクなどのオマケが充実している。それを省いた廉価版という位置づけだが、吹き替え音声も入っているなど、かなり買い得感のあるソフトになっている。

 この価格帯が意味していることは重大である。つまり1500円なら劇場に映画を見に行くより安い、500円ならレンタルで借りるのと変わらない。これは消費行動を変化させる要因となり、レンタルショップの経営にも影響があるだろう。また、今後拡大するであろうインターネット配信の映像コンテンツ販売にも大きな影響を与えうると思われる。
 すでに始まっている音楽コンテンツのネット販売では、アルバムの曲をばら売りしているのでわかりにくいが、ほぼ市販のCDと同じくらいになるように価格設定されている。さすがに映画一本6000円とかとなると買い手がいないだろうが、これが500〜1000円となればネット購入も気楽に出来るということになるだろう。
 現在のネット上では一般の映画は多分まだ販売されておらず、代わりに郵便等を使ったレンタルショップが営業している。映画がネットでダウンロード出来ないのは、コピーを防ぐためだと思うが、これだけの廉価版が出てくると状況も変わってくる可能性がある。

 しかし、こうした流れは邦画や音楽系ソフトには及んでいないようだ。安く売れない事情があるのだろう。(最近、古い洋楽の輸入CDには10枚組1500円というのも出ているが。)
 制作費・宣伝費が回収できないのだろうか。
 しかし、売っている中味はソフトである。極端な話、価格が10分の1になっても、10倍売れれば同じことだろう。さすがにそこまでは行かなくても、値段が半額になれば売り上げも相当に違うのではないかと思うのだが。

 何も全てのソフトの値段が下がればよいというのではない。映画やテレビなどの二次使用でないオリジナル作品は当然割高にもなるだろう。コレクターズアイテムのようなマニア向け豪華版だって需要がある。ソフトとは言えないが、大量生産の論理が通用しないライブは当然入場料を高く取るしかない。

 しかし、ようは購買習慣をつけさせることが出来るかどうかという問題なのだと思う。よく本離れとかCD離れとか言われる。しかし、その一因は価格が高いことにある。一枚3000円のCDをそうそう気軽に買えるわけはない。ソフトはまさにソフトであって、聴いて(見て)みなければ、それが本当に面白いかどうかわからないのだから、高額の商品を買うのは一種の賭になってしまい、結局ソフトを買うということが特殊な行為になってしまうのである。

 価格破壊という現象には様々な問題が存在するから、一概に値段が下がればよいということではないにせよ、映像、音楽ソフトについて言えば、ここにひとつの転機が来ているのではないかという気がする。




発言者: いまのまさし
TITLE: 上田知事の「造詣」の無さを嗤う
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CATEGORY: 経済・政治・国際
DATE: 11/23/2005 10:21:07 PM

 今日の朝日新聞埼玉版によると、埼玉県の上田知事は記者会見で「皇室典範に関する有識者会議」について「委員に歴史や文化に造詣がない方が多すぎる。なぜ2千年の天皇制が尊敬され、存続しているのかの考え方が全く出ていない」と不快感を表明したそうだ。
 上田氏に教養を求めてもしかたないのだが、いったい学校で何を学んだのだろう。

 どこに天皇制が2千年続いたという証拠があるのか。というより、そもそも天皇制という概念自体はおおよそ20世紀になって左翼の歴史観から生み出されたものなのだが…。まあその点は置いておいたとしても、日本の古代王朝の成立に関わる証拠は今のところ西暦の3〜4世紀を遡っては存在しないのではないだろうか。2千年前と言えば「弥生」に区分される時代だ。稲荷山古墳の有名な鉄剣を出土した埼玉県の知事としては、かなりお粗末な知識という他ない。
 まあ日本に国家と呼べるような体制が作られ、天皇が制度として確立するのは、せいぜい5〜6世紀というところであろう。

 皇室関係者からは「天皇が尊敬されているのは系譜が2千年続いたから」という主張も出ているようだが、こちらの方は、制度としての天皇の問題としてではなく家系の問題として言われているところがミソかも知れない。なんとなれば家系というのは現代社会においてはプライベートなものであり、その当否は主観的なものだからである。現在人間がこの世に存在している以上、確かに2千年、否、300万年近くヒトとしての血縁関係は繋がっているはずである。その内の特定の部分を「家系」と認識するのは個人の主観の範疇であって、「そうですか」と言うほか無い。とらえ方によっては全ての人の系譜が万世一系なのである。
 もちろん、「家系」と言った場合「家」との関係で位置付くわけで、そうそう乱暴に言うわけにもいかないのだが。いずれにしても、天皇家の主張はともかく、歴史学的に2千年の家系を証明するのは困難なことではある。

 確かに現代の日本において「天皇制」を容認し、天皇に親近感なり敬意なりを感じる人が多いのは事実だが、それは6世紀の日本や江戸時代、戦前の日本など、いずれの時代の感覚とも違っているのだと思う。
 現代の日本人が天皇に親近感を感じるとすれば、それはまさに象徴としての見本的マイホーム像を見いだすからであり、制度として天皇に「敬意」が払われるのは憲法の象徴規定によるからである。

 天皇は明治維新勢力のブルジョア革命に利用され、それまでの祭司の最高権威という地位から、絶対王制の君主兼一神教的「神」へと変貌させられ、やがて国家神道という絶対主義の元首となった。
 上田知事の無教養を嗤わざるを得ないのは、そうした歴史認識のカケラも無く、多分直接聞いたこともないだろう戦前の国家神道的世界観に振り回されて、いい加減なことを言っているからだ。もちろん、知識が無くてもいい加減でも、それがその人の力量なのだからしかたがないが、嗤われるのも、またしかたがないのである。


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TITLE: 天皇制私論
URL: http://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/11/post_83a9.html
BLOG NAME: 反戦老年委員会
DATE: 12/02/2005 09:43:26 AM

 11月26日の「種の保存」に関連して、「あしぶみ」様からコメントをいただき、ま



05年1〜6月 05年6〜8月 05年8〜11月 06年 07年

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