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09年の亭主口上



09/1の
亭主口上
 本当にやっとこのトップページから「自衛隊のイラク派兵絶対反対!」の真っ黒いメッセージを外すことが出来た。まさか6年間もこのうっとうしいメッセージを貼り続けることになろうとは思いもしなかった。
 当初はこのメッセージを取るときには清々しい気持ちになれるだろうと思ったのだが、実際には全く逆に苦々しく重苦しい思いで一杯である。
 いまだに自衛隊はインド洋での給油活動を継続中だし、さらに早くも為政者たちは「新しい国際貢献」という名の侵略派兵先を探している。一方まさに今現在パレスチナのガザではイスラエルによる空幕で1000人以上の死傷者が出て、それはまだ増加するような悪い予想がされている。

 ぼくは年末に急遽、ワンポイントでイスラエル大使館抗議行動に参加し、大使宛ての抗議メールなども送ったのだが、日本でもヨーロッパでも思ったほどの抗議の声が上がらない。
 一方的にハマスを非難する合衆国は論外としても、温暖化、格差・貧困の問題に並んで21世紀の最重要課題であるイスラム原理主義の問題は、まさにこのパレスチナに根があるのだから、世界の人々は本気で真剣に取り組まなくてはならないはずなのに。

 もちろんイスラエルは世界の関心が経済問題に向き、合衆国の政権交代による政治空白が生まれているこの時期を意識的に利用して今回の虐殺行為に踏み切ったのだろう。しかし、そうだからと言ってこの問題への関心を失うほど人々が内向きだとしたら、もう人類に未来はない。

 なお、ぼくが抗議メールを送った先をメモしておくので、何かの参考にしていただければと思う。

information@tokyo.mfa.gov.il
駐日イスラエル特命全権大使
ニシム・ベンシトリット閣下 宛

09/2の
亭主口上
 何のCMだったか、マラソンを引退した高橋尚子が「あきらめなければ夢はきっとかなう」と語りかけるテレビコマーシャルがある。

 そのことを批判するつもりはない。

 ただ、ちょうど合衆国のオバマ大統領就任にからんで、キング牧師の「私には夢がある」というあの有名な演説もよくテレビで流されていて、「夢」というものが、現代では何と小さな意味になってしまったのか、という感慨がわき上がってくる。
 もちろん昔もQちゃんの言うような意味の「夢」を持っていた人は多かったろう。自分の成功、自分の勝利、自己実現である「夢」。
 それが悪いと言うのではないが…

 2009年の日本は、ある意味でどん底に陥り、だから逆にあらゆるところに「夢」という言葉が氾濫しているような気がする。
 しかし、その全てが、「私」の夢なのである。

 がんばれば実現できる。何故がんばらないのか。夢をあきらめるな。

 この世界から夢を奪い続けている奴らが、そんなことを言っている姿には胸が悪くなる思いだ。
 キング牧師の夢は「私」という個人の希望を捨てたときに、やっと語ることが出来た夢だった。彼は夢を語り、そして殺されていったのである。

 ポスト団塊の世代、つまり三無主義といわれたぼくらの世代、あらかじめ敗北していた我々は、社会から徹底的に大きな夢を語ることを封じられて育った。それも、ぼくらに先行する世代が暴力的な弾圧によって教え込まれたことを、高度経済成長と80年代バブル景気という物欲と快楽によって教え込まれたのである。
 そしてぼくらはこの社会をこんな社会にしてしまった。
 何も考えないというなさざる行為によって。

 ぼくらの世代は、もはや若者ではなくなった。
 しかし、おそらく死ぬまで「大人の責任」を取ることが出来ずに終わっていくだろう。本当に申し訳ないことではあるが。



 1月の終わりに大麻で逮捕された十両力士の若麒麟は、昨年末に一年を総括した漢字一文字を訊かれて「夢です」と答えていた。
 10年前に亡くなった黒澤明の晩年の作品『夢』は、少年の日の幻想が大人の日の悪夢を経て、最後に自分を超えた夢へと昇華していく映画だった。

 そんなことを、ふと思い出す。


09/3の
亭主口上
 おかげさまでWWW極地も開設から10年を迎えることが出来ました。
 ついこの間のことのような気がしますが、そうは言っても、やはり落ち着いて考えてみるとこの10年間にはずいぶん色々なことがありました。
 仕事の面でも、社会活動の面でも、趣味の面でも、様々な体験をしたし、他人に迷惑をかけたし、また悲しいことや悔しいこともありました。

 今気づくと、ホームページの開設は不惑の年で、そうすると今は知命ということになります。この10年は自分自身の意識の中では何も迷うことがなかったと思っていますが、たぶん客観的に見たら同じ年の人たちに比べて滅茶苦茶迷走しているような生き方だったかも知れません。
 天命を知る歳になったわけですが、自分の天命というものは、なんとなく二十歳の時にすでに授かってしまったような気もするし、しかしそれを実現することが出来ないまま、ここまで生き延びてきてしまったように思います。

 本当はこういうことは誕生日とかお正月とかに思うことなのかも知れませんが、こういう機会にあらためて文書を書こうとして、ああそうだよなあと思い至るのです。電脳頭になってしまっているということでしょうか。

 それにしても、40から50の10年と、30から40の10年ではずいぶん長さが違うし、ハタチから30、10才からハタチのことを考えると全く違う単位のようです。
 自分の人生の初めのうちは、他人よりちょっと大人になるスピードが遅いかなと思う程度でしたが、ここ最近の10年では決定的に進化が止まり、先日も書いたような気がしますが、このままでは永遠に大人になれないんだろうなとあきらめの境地でおります。


09/4の
亭主口上
 先日テレビを見ていたら、たぶん何かのニュースショーだったと思うが、「人々の間に閉塞感が蔓延している」とキャスターが発言していた。
 確かにそうだなと思いつつ、しかし案外と心の中ではそうでもない感じがあって、自分自身にちょっとビックリした。

 そう、思えばぼくがこの日本社会に閉塞感を感じてから30年以上たつ。だんだんとその思いは強くなる一方だったのだが、どうも最近になって、明るい希望が見えたというわけではないが、何かほんの少しだけ時代が動いているような感じがするのである。

 たとえば一番最近がっかりしたことは、千葉県知事選挙でバリバリの自民党員である森田健作が無所属と偽って立候補し、それが当選してしまったことだが、ただ、東京の石原、宮崎の東国原、大阪の橋本などに続いて、極右のタレント知事が出現したことは偶然ではなく、ひとつの必然のような気がする。
 彼らは実質上、自民・保守勢力を利用して知事になったと言えるが、かと言って自民党の主流派とはとうてい言えない極右的立場のいわば傍系の保守政治家であり、またタレントとしての知名度を武器にして中央政治家や霞ヶ関のコントロールに縛られない反中央的な行動派である。

 歴史の教訓から学ぶとすれば、時代の変わり目、革命的時代が到来する時期には、右と左の両端が突出して来るものなのであり、旧来型の自己保身的保守政治家を押しのけて、急進的右翼が登場してくる情勢は、危ういと同時に、何か変化が起こってくる気配を感じさせるのである。
 実際、昨年の世界的金融危機の勃発以来、派遣村運動に代表される民衆の側からの抵抗運動が急速に注目されるようになっている。
 ヨーロッパにおいては、もうずいぶん以前から極右の台頭が始まっていたが、同時に反グローバル運動も活性化し、今回のロンドンG20では「反資本主義」グループによる大規模かつ先鋭的なデモが行われ、すでに死者まで出している。

 繰り返して言うが、ぼくは別にこのような時代状況を、決して明るいと思っているわけではない。むしろこれから厳しい時代がやってくるのだと思う。しかし、それはただ重苦しい閉塞感だけの時代とはちょっと違う気がするのである。

 そうした中で、じゃあ自分はどうしたらよいのか、と考えると、しかし答えはまだ全く見えてこない。
 様々なところで様々な人々が様々な模索を始めている。
 自分たちの運動を必死で守り抜こうとする人々がいる一方で、運動の「死に水」を取ることを通じて新しい時代に闘う精神を引き継いでもらおうとしている人がいる。むしろこれまでの自分を完全に捨てて、全く新しい運動を白紙の所から作るべきだと考える人たちもいる。
 何が正しく何が間違っているなどと言えるわけはないが、ただひとつ確実に言えるのは、歴史が全く同じように繰り返されることだけは無いということだ。
 しかし、その見極めは案外と難しい。


09/5の
亭主口上
 このところ、このサイトの更新がちょっとずつ遅れている。もしこのサイトを熱心に見てくれている人がいたとしたら申し訳ありません。
  m(_ _)m

 さて、その理由という訳でもないのだが、先月ぐらいから体調がひどく悪くなった。体がだるくて仕方ない。それで思い切って節酒を決意。酒を飲むのはだいたい一週間に一度くらいになった。
 同時に食べる量を少し制限し、ウォーキングやジョギングなどで少し体を動かしている。まあ、簡単に言えばダイエットだが。

 それでちょっと調子が良くなっている感じがする。
 まあ、少なくともアルコール依存症ではないことだけは証明された。

 そう言えばメタボ検診も面倒くさくてほったらかしだが、あれって受けないといけないんだったっけか?


09/6の
亭主口上
 やっとのことで、パソコンのシステム入れ替えが一段落。
 今回は今までの様々な教訓から、ハードディスクのリムーバブルケースを活用して、こまめにデータを移しながら移行作業を進めた。
 とりあえずは、ほぼ以前の環境を再現できたと思っているが、これからいろいろと問題が出てくるのかもしれない。

 ところで、先日こんなハガキが母宛に届いた。
全国消費者生活相談センター 消費料確認通知書
 まあ、例のアレである。
 ネットで検索してみると、高齢の女性に的を絞ってやっている振り込め詐欺らしい。面白そうなので電話してみたいという誘惑に駆られたが、どうやら男の声で電話するとすぐ切られてしまうらしいので止めた。
 今時こんなもので釣られる人がいるのかとも思うが、しかし高齢女性なら、訳がわからなくて引っかかるかもしれない。
 たちの悪い奴らではある。


09/7の
亭主口上
 やはり予想通りというか、解散総選挙はギリギリまで延ばされるような気配だ。

 7月1日にはごく小規模の閣僚人事が行われたが、マスコミが期待した東国原知事のサプライズ入閣もなく、テレビのニュースキャスター達は「本気で心配になる」とか「何がなにやらという感じになってきた」とか「国民に信を問うための解散権を行使できない総理大臣」だとか、それこそ今更なコトをのたまわっておられる。
 そもそもこれはあの小泉郵政選挙で小泉純一郎を徹底的に持ち上げ、自民党の圧勝を生み出したマスコミの功労(もしくは責任)なのだ。

 現在のテレビの政治批判はあまりにも鋭さを欠いている。

 一見毒舌のようなタレントを出して政治ショー番組が作られているが、それもようするに視聴率目当てでしかなく、本質を突いていくのではなく、いかに面白くするか(もっとも場合によってはいかに面白く無いようにするか)が目指されているだけである。
 民主党に対しても、小沢氏に続く鳩山氏の不正献金疑惑が持ち上がっているのに、ニュースのトップは東国原氏が毎回同じ台詞をつぶやくシーンになってしまうのだ。
 ましてや社民党・共産党が何を主張し、そして何を行い、また何を行っていないのかなど、我々には全く伝わってこない。これは明らかに有権者の目を保守政党にのみ向けさせる誘導であって、いわばマスコミが自民・民主の事前運動の片棒を担いでいるということである。

 こうしたマスコミの愚挙によって愚昧な政治家が選ばれていき、そして数年の後にそのあまりに愚かな結末を、さも賢そうな顔をしたニュースキャスターが嘆いてみせることになるのであろう。


09/8の
亭主口上
 虹が出た。
 根元だけだが、こんなに立派な虹を見たことは今までない。

 さて、今年(も)異常気象だと言う。作物の生育が悪く根菜類はダメで、米も危ないとのこと。
 高校時代に少しだけ気象について調べたことがあったのだが、当時から毎年のように「今年は異常気象だ」と言われていた。それから35年。世界の気象は激変したのかもしれないが、毎日のことになると人間は鈍感になってしまう。

 前回、米が大凶作だったのは細川政権ができた年だったのだそうだ。この8月以降、いったい日本に何かが起きるのか、何も変わらないのか。古代の人なら皆既日食や虹によって占うことも出来たのだろうが、現代人にはそんな能力さえ失われてしまっている。


09/9の
亭主口上
 なんだか今月は更新が遅れてしまったが。

 写真は先日の衆議院選挙で、ぼくの家の前に開かれた投票所の風景である。こんなのは初めて見た。
 雨が降っているのにもかかわらず、みんな傘を差してずらっと並んでいる。思えばここはぼくが人生で最初に投票をした会場なのだが、これまでこんなに並んだことは一度もない。
 列にいた人たちも皆一様に驚いていた。
 写真にはちゃんと写っていないが、このあたり路上駐車を含めて自動車と自転車であふれてもいた。

 選挙結果はもちろん予想通りの民主党圧勝だったが、前回の小泉郵政選挙ほどでもないにしても、なんとなく恐ろしい感じがする。
 こんなふうに「風」に流されて政治が作られて行ってよいものなのだろうか。

 この前の小泉チルドレンの代わりに、今回は小沢ガールズが大量に出現したそうだが、昔の社会党の土井チルドレンがそれなりに見識を持った政治の「プロ」を目指していたのに対して、最近の「チルドレン」は本当に志を持っているのかどうかさえ疑わしい、ただの頭数のようなところがある。
 もちろん、そんなことを言えば自民党議員の大半も、別に理想に燃えて政治家になっているのではないわけで、本音は権力と利権目当てでしかなく、国会では自分の見識など皆無、ただ派閥の決定に従って行動するだけだから、第二自民党である民主党にそんなことを求めても無理な話なのかもしれない。


09/10の
亭主口上
 先月カメラを買ったわけだけれど、なかなか使う機会がない。
 まあ野山の中なら別に問題はないのだが、最近の世の中の風潮を考えると、なんとなく街中では気軽に写真が撮れないような気がしてしまう。
 一昔前なら試し撮りに、街角の風景とか、遊んでいる子供たちの姿などを撮ってみたりしたかもしれないが、この頃は自分の目の前にある光景をただ単純に写真に写し取ることが「盗撮」と言われかねない状況だ。
 もちろんそういう状況が生まれるにはそれなりの理由があるのだし、それは理解するのだが、一方で町中に大量の監視カメラが設置され、インターネットでは世界中の好きな場所を見ることができ、多くの人々が携帯電話という名前のカメラを四六時中持ち歩いている時代の中で、表面上の軽やかな「自由」さと、その薄皮一枚後ろに隠されている管理と呪縛のギャップに恐ろしささえ感じるのである。

 昔は見ることのできないものは見られなかった。トートロジーのようだが、当たり前のことが当たり前のことだった。しかし今は違う。
 今ぼくたちは何でも自由に気楽に見て知ることができるような気になっている。しかし実は、それはそんな気がしているだけで、本当は逆に目の前にあるちょっとしたものでさえ多くのものが見えないように隠されているのではないのだろうか。
 さっきのフレーズを言い直すとこういうことだ。つまり、昔は見ることが出来ないモノには、それは見てはいけないモノなんだということが、はっきりと明示されていたのだが、今は表側からハッキリ見えるような「禁止マーク」が無くなってしまって、誰かの恣意的な意図によって「見て良いモノ」と「見てはいけないモノ」が密かに決められるようになっているのだ。しかも、「見てはいけないモノ」の範囲はかつてとは比べようがないほど広がっているということなのである。

 そんなことの象徴の一つにテレビのモザイク=ぼかしというのがある。
 もちろん人権に配慮して行われることもあるが、それは確かに致し方がないところがある。しかし、隠してあるのなら隠してあるとハッキリ解るようになっていなければならないと、ぼくは思う。
 それにしても一番気になるのは、スポンサーの利害を考慮して街中の看板などにさりげなくぼかしが入っているような場合だ。ドラマであれば、それはそもそもフィクションであることがあらかじめ了解されているのだから、不都合なものを隠すということも許されるだろうが、バラエティ番組を含めて、それがノンフィクションである(もしくはノンフィクションの体をとっている)番組であれば、原則的にそこにある情報を隠すのは間違っていると思う。
 それも、さりげなく目立たせず隠すというやり方は、ひとつの情報操作であり、もはや危険と言ってもよいくらい大きな問題ではないだろうか。

 先日、あるとても有名な「散歩番組」を見ていたら、過去と現在を比べるために古い写真画像が挿入されたのだが、その写真の背景1/4くらいにぼかしが入れてあった。交差点に掲げられていた看板を消したのだろうが、60年も70年も前の写真はそれ自体が歴史的資料であり、それに対して自分の都合だけで大きな改変を加えることには大きな違和感を感じる。
 テレビ局は自分たちの著作権ビジネスにおいては利権を守るために複製を規制する放送のデジタル化まで始めているのに、写真という著作物たる作品の同一性を保持するという最も重要な点の問題意識は極めて希薄なのだ。
 そして、その上その番組が一種の情報番組である以上、そこに現に存在する事実を覆い隠すことは、マスコミとしてやってはいけないことだったのではないだろうか。

 かつて、ソ連のスターリン主義時代には、レーニンやスターリンの写った写真が時代によって微妙に変化していった。
 粛正された人物が写り込んでいた場合、それを次々に消していったのである。写真という一見リアルな情報が実は政治的意図で操作されまくっていたのである。
 技術が進歩した現代では、もっと巧妙に情報を操作することが可能である。しかし、だからこそ、隠さないこと、そして隠す必要があるのなら隠してあることが解るように隠すこと、そのことが絶対に必要だと思うのである。


09/11の
亭主口上
 うちのすぐ前にあったスーパーマーケットが、昨年のリーマンショックの影響だろうが突然撤退して半年。地域の人たちはあとに別のスーパーが入ってくれることを期待していたのだが、結果的にペットショップになってしまった。
 おそらくこのスーパーの一番大きな購買層は、ぼくの住んでいる団地の住民だったと思われるが、ここもご多分に漏れず高齢化が進んでいる。核家族の高齢化だから、当然食料品や日用品の購買額はどんどん下がるばかりだろう。このスーパーを経営している会社は相当な優良企業のようで、つまりその理由は利益率の低い店をさっさと閉めてしまうその経営手法にあったというわけだ。事実、このチェーンは数キロ離れた新築の高層マンションが立ち並ぶニュータウンの中にちゃっかり大規模な新店舗を開いた。

 それにしても皮肉な言い方をすれば、人の命に関わる生活必需品よりもペットの商売の方が儲かるということだ。というか、その結果はこれから出るのだろうが… 実際のところ、このペットショップ、果たして儲けが出るのだろうか。
 もちろんそれはどれだけの市場規模があるかということに関わるわけだが、中を覗いてみると基本的にはペット用品を販売する店のようである。ペットは結局は趣味であり、人間は趣味のためならカネを出し惜しみしない。そういう意味ではうまくいく可能性もあるか。

 まあそれはそれでよいのだが、それにしてもこういう状況はなんとなく、テレビで虐殺や非人道的行為を伝えるドキュメンタリー番組などが深夜帯やBS・CSに追いやられ、人ならぬペットが可愛がられるバラエティー番組がゴールデンに君臨する状況と重なって見える。
 これは別に批判ではないが、他国の人の命より、自分のペットの方が大切であり、援助機関に寄付したことはないが、高級なペットフードはためらいなく買えるという生活、それは別に不思議な現象ではないにせよ、できればそれを自覚した上で生活して欲しいと思う。

 付け加えれば、ぼくもペット・動物番組は大好きだ。団地の規則で飼うことは出来ないけど。


09/12の
亭主口上
 ぼくはディベートというのが嫌いだ。
 そもそもディベートという言葉を初めて聞いたのは、あのオウム真理教事件で上祐史浩氏が大学で名手だったという報道のときだった。そういえば、その頃から「民主主義は言葉の戦争だ」みたいな言い方がよくされるようになったのではなかったろうか。
 そもそもそこに日本語の「民主主義」という言葉が意味するものに対する認識のずれというか、ぼくが信じ求めてきたものとの大きなギャップを感じるのである。
 ディベートはテクニックであって、しかもそれはその場において即興で相手を言い負かす技術である。しかし技術の優劣が、ある物事の優劣とイコールでないことは明白だ。そもそも議論というものは勝ち負けを決めるためのものなのだろうか。

 ぼくの大嫌いなテレビ番組(だから滅多に見ることはないが)に「朝まで生テレビ!」という番組がある。何が嫌いなのかと言えば、この「大激論」は初めから出席者の間で合意を図ろうというコンセプトがないことだ。
 合意を求めない議論はただの喧嘩でしかない。もちろん喧嘩好きの人も多いだろうし、そういう人が格闘技を見る感覚で一晩中テレビを眺めていて悪いとは思わないが、少なくともぼくには何の意味もない。
 ぼくにとって民主主義というのは時間をかけてみんなで合意を図っていくプロセスのことである。

 ぼくが子供の頃、学校の学級会では誰かがすぐに多数決をとろうと「動議」を出すのが常だった。議論するのが面倒だからである。
 たぶんそれは日本中の学校でまかり通っていた風潮だったのだろうし、おそらくそれこそが「民主主義」なのだと当時の子供たちの中に植え付けられていったはずだ。いわば問答無用「数は力」という論理である。
 そしてそれは当時の日本の空気を反映していたのかもしれない。それはちょうど、かの田中角栄が日本の指導者として君臨しようとする時代のことだったからである。

 もっともこう見てくると、「数は力」よりは、ディベートの方がなんぼかマシなのかもしれない。今度は「テクニックが力」に変わっただけの話ではあるが。

 そして現代の民主党である。

 ぼくが民主党には初めから何も期待しておらず、むしろずっと警戒し続けていることは、このサイトの来訪者の方ならご存じかと思う。
 そんな中でこのごろ世間的にもハッキリしてきたのは、民主党の真のボスはやはり小沢一郎氏であるということだ。それは党内の独裁者といってもよいくらいの存在である。そしてその小沢氏がまさに田中角栄の直系であり、数は力、政治は選挙、そして力は金、金は力という思想の持ち主なのだ。

 こうして民主党は徹底した小沢流選挙で政権を取り、今回、事業仕分けというディベートのイベントを大々的に仕掛けてきたわけである。
 この公開の事業仕分けに良い点があることは認めるが、薬はすなわち毒であり、果たして今回の仕分けが(仮にすんなり予算に反映された場合)我々にとって薬より毒素が強いということになりはしないのだろうか。

 その象徴の一つとも言えるのが保健薬の適用除外の問題である。
 漢方薬が保険適用除外になるということで騒がれているが、もちろん問題は漢方薬だけではない。整形外科などで処方される湿布薬や内科で処方されるうがい薬など、高齢者が日常的に使っている薬が直撃されているのだ。
 年寄りは薬屋で買うより医者に処方してもらった方が安いから病院に行くわけで、これが実費になったら大きなチェーンストア型の薬店で買う方がずっとお得ということになる。

 この場合の問題は二つある。ひとつはこれによって安い大型店がある地域に住む人と選択肢のない地方に住む人との格差がまた増大すると言うことだ。
 そしてもうひとつは、老人が病院に行かなくなることである。それによって医療費の支出減を狙っているのかもしれないが、高齢者の体調不良というのは非常にわかりづらいもので、それを自分の判断、よくてせいぜい薬剤師の見立てで、その原因を発見することなど実際上不可能である。
 肩こりだの、腰痛だのと言っても、それが実は内臓疾患だったり癌だったりするという事例は珍しいことではない。私事ではあるが、ぼくの父はちょっとしつこい咳が出ると言うことで市販の咳止め薬を飲んでいたが、結果的にはそれが本当の命取りになってしまった。

 心配な症状ならば買い薬ですまさず自分で医者に行くだろうと言うのは、それこそディベートの「勝てる論理」でしかない。市販薬を買うだけの方が安いとなれば、ほとんどの人は、特に高齢者ならなおさら、病院になど行くわけがない。

 民主党の掲げる政策は(と言うより選挙に出てくる政党はどれも同じだが)実現困難な誇大広告でしかない。
 経済を活性化し、増税もせず、「無駄な」予算を削って、しかも高福祉の社会を作るなどというのは、とことん不可能なことなのだということに、我々はそろそろ気づくべき時ではないのだろうか。

 確かにかつて日本で、そして欧米諸国において、ある時代そんな理想が実現しているかに見えたこともあった。
 しかしそれは、実は自国の下層民やアジア・アフリカ諸国の多くの人々から、あくどく収奪した上にかろうじて成立したはかない幻影でしかなかった。
 そんな夢(別の人々から見ればとんでもない悪夢なわけだが)を、もう一度求めるのではなく、誰にとっても平等・公平で安らげる社会とは何なのか徹底して考え、作っていくこと、それが21世紀以降の人類がとるべき道なのだと思う。

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