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08年の亭主口上

08/1の
亭主口上

明けましておめでとうございます

 この数ヶ月いろいろあって、ホームページの更新ができませんでした。新年の企画も何も用意していません。
 いろいろ、という事の中にはパソコンのデータをメイン・バックアップとも全部消してしまうという非常にイタい失敗もあって、物理的にも作業が停滞しています。
 いろいろご迷惑をおかけしていることもあるかと思いますが、お許し下さい。
年頭歌

冬のなき春を迎える温暖化人なき広場に電飾揺れぬ

(近作集もアップしました)


08/2の
亭主口上
 最近は何もかもがバカバカしく思えて仕方ない。
 とくに政治。

 大阪府知事選って何だったのだろう。遠い関西のことだから、どうこう言う立場ではないけれど、行政の長を「面白い」から選ぶというのは理解しがたい。ましてやあれだけ人格的・思想的に問題な人物を、である。
 大阪府民が変化を求めた結果だと言う人がいるかもしれないが、自公候補を選んで「変化」もないもんだと思う。というより、比較的若い世代を中心にした「新しい保守」層が広がってきた結果という方が正しいのだろう。
 橋下新府知事はテレビショーなどでさかんにボクシングの亀田一家やヒール朝青龍などを擁護してきたけれど、それはつまり強い奴が好き勝手するのは当然だという考え方で、それが嫌なら自分で強くなれ、そして他の奴らを蹴落としていけという思想なのだろう。
 それは同時に誰も頼るな、自分と家族(と言うより旧「家」制度における家の構成員)以外は敵だという、極限まで行き着いた「超」ナショナリズムと表裏一体の思想でもある。

 このような殺伐とした「超」競争原理主義は、いわゆる小泉改革で日本社会の中に一気に広がったものだろうが(もっとも小泉元首相自身の正体がナショナリストの仮面をかぶったアメリカ合衆国のエージェントみたいなものだったのは皮肉だが)、こうした社会の中から橋下弁護士的な考え方に同感する若い世代が大量に生まれてきたのだと言えよう。
 ただし彼らは旧来型の「右翼」では(ですら)ない。
 上段で"「超」ナショナリズム"と表記したが、これはすでにナショナリズムさえ破壊されているという意味を込めた表現である。彼らは「超」競争原理主義社会の中で、すべての人間的紐帯を失ってしまい、その場その場でその時一番強い勢力に付く(…とは言ってもたいていは一方的で気分的なものに過ぎないのだが)以外に自分の居場所を決められない「浮遊民」だ。戯画化して言えば中国や韓国を罵って挑発するが、もし本当に戦争という事態になったら真っ先に逃げ出すような「無責任な大衆」なのである。

 こうした人々が選挙で選ぶ政治家がこの国の政治を行うのだから、バカバカしいに決まっている。しかし、これが民主主義なのだ。仕方がないのである。


08/3の
亭主口上
 ちょっと興味がわいて「作業服」の歴史について調べている。

 ぼくの父は典型的な工場労働者だった。家には油と鉄のにおいのしみこんだ木綿の作業ズボンやワイシャツ(父はワイシャツを作業シャツとして使っていた)が沢山あった。
 ぼくはそういう作業服が大好きだった。父のお古の汚れた作業ズボンをもらって喜んではいていた。父のお下がりが無いとわざわざ新品の作業ズボンを買ってもらったくらいだ。
 実はぼくはかなり後までごわごわした感じのジーパンより、作業ズボンの方がはきやすくカッコイイと思っていた。思えばチノパンが流行って作業ズボンがファッションになる以前の話だ。

 今では日常的にはジーパンとデニムのワークシャツで過ごしているのだが、それでも作業服は大好きでそれこそ捨てるほど作業服類を持っている。環境保全活動の現場へはもちろん作業シャツにズボン、作業用ベストとゴム長、キャップ帽で出かけている。

 さて、父は絵に描いたような下層プロレタリアだったが、電車で通勤するときはネクタイ姿でハンチングを被って行った。勤務先に着いてから着替えていたのだ。それが別に特別なことだと思っていなかったが、先日ある友人と話をしていて、「なぜ父は作業服で通勤しなかったのか」と訊かれて、虚を衝かれた感じがした。
 どうもその友人は労働者の作業服姿というものにプロレタリアの階級制の記号を見ているらしく、作業服で電車に乗らないのは労働者を差別する気持ちが背後にあるから、と思っているらしい。
 そんなことを考えてみたこともなかったので一瞬鼻白んだ。

 ぼく自身もずっと後になって町工場の工員になった。
 その時は自転車通勤で、着替えるのも面倒くさかったので家を出るときから作業服のまま行き、そのまま返って来ていた。何か会合があればそのままの格好で出向いた。
 しかし、そうしていたのは工場の中ではぼくひとりだけで、他の同僚は皆ちゃんと着替えていた。ぼく自身は作業服でどこへ行こうと悪いことと思わなかったが、それでも少しだらしないのかなという気がしていたのも事実である。
 ようするに、それは身だしなみの問題であり、つまりは文化の問題なのだと思う。実際、汚れていたり臭ったりする作業服で満員電車に乗るのははた迷惑な行為なのだから、マナーとしても作業服は現場で着替えるのが常識的だ。もちろん、そういうことに頓着しない文化で育った人間なら気にならないだろうが、そうでない人もたくさんいる。多くの人が普通にやるソバをすする食べ方でさえ、嫌な人には絶対に出来ないのである(実際にそういう知り合いがいたのだが)。

 もちろん前記の友人のいうような「差別」意識が世の中に無いとは言わない。というだけでなく、逆に職場を神聖視する人なら作業服は工場の中だけで着るべきで、外で着たら仕事の神聖さを汚すと考える人だっているかもしれない。だいぶ以前聞いた話では、日常の生活着としてスポーツジャージをラフに着ている人を見ると腹が立つと言う運動部出身者もいるのだそうである。これもまた文化の問題だ。

 正直言って、別に服装なんか自分の好きにすればよい。TPOに縛られる必要もない。個人的には制服などというものはなるべくない方がよいとも思う。会社や上司が労働者の服装にいちいち介入するのは人権侵害じゃないだろうか。

 ・・・などと、書いていたらダラダラ長くなってしまった。
 ともかくも上に書いたように、そこに込められた文化的記号の問題として「作業服」を考えてみたくなったというのが、いま作業服について調べている理由である。
 とりあえず日本国語大辞典を開いてみたら、どうも作業服(作業衣)というのは明治、大正期のインテリにとっては暗く否定的ニュアンスの言葉のようだ。ネット上の「差別語辞典」的サイトでは「ナッパ服」が差別語としてリストアップされていた。
 この調査、かなり難しそうだが、結構面白いかもしれない。

 

08/4の
亭主口上
 ガソリン税の暫定税率問題。ともかく4月1日より法律が失効したが、再び自民党が衆院で再可決して暫定税率が復活するとかしないとか。エンジンの付いた乗り物を持っていないので、ぼく個人には直接的な影響はほとんど無いけれど。
 それにしても本質的な議論がまったくなされていないという気がする。
 温暖化対策としてガソリンに課税し消費量を減らすという政策は間違っていないと思うが、そのカネを道路事業に使うというのでは完全に矛盾・錯乱した話にしかならない。やはり高率の課税をした上で地方に直接カネをまわし、また環境対策の費用として使うというのが一番まっとうな考え方だと思う。地方はそのカネで必要なら道路を造ればよいのである。それでもただ道路を造るより衰退した公共交通を復活させ、自動車を使わなくてもよい社会システムを再構築していくというコンセプトでやれば、より効率的なのではないかと思う。

 いずれにせよ石油は今後も高騰していく。代替燃料としてのバイオ燃料生産のため穀物の価格も上昇していく。しかし、日本の国内産業はそれによってほとんど恩恵を受けないので利潤率は低下していく。結果として失業者の増加を含めて平均賃金は下降していくしかないだろう。
 これはいたしかたのないことなのである。
 保守であれ左翼であれ、そんなことを言えば大衆からの支持が減るから公然とは言わないけれど、日本経済は下降し続け、人々の生活水準が相対的に低下するのを止めことは不可能だ。もうみんなわかっていることだ。

 利潤率は必ず均衡する方向に動く。20世紀にはレーニンが呼ぶところの帝国主義各国がこうした経済の法則を食い止めるような政策を強力に推し進めた結果、先進国はあり得るはずの無いような「大繁栄」を遂げた。それは主にアジア、アフリカ諸国に貧困を押しつけることで世界中の富を独占し成立したものだった。
 しかし、そうしたシステムは資本主義の本質的な運動からみれば非常に不自然なものであったから、少しずつほころびはじめ、今や穴が開きつつあると言ってよいだろう。
 ものすごく乱暴な言い方をすれば、いま中国人の労賃と日本人の労賃が同じ水準になる方向で経済が激しく動いているのである。もちろんそれは中国と日本だけの関係ではなく、アジアやラテンアメリカ、旧東欧圏諸国でも同じことだ。そしてまた、それはそれらの国々と米英仏独などの先進国との関係においてもしかりである。

 日本(および各先進国)の経済は下降し続けるしかない。しかし、むしろ深刻なのは日本が世界経済の中で負けることよりも、国内における格差の広がりの方だ。一般的に貧困は相対的なものでしかない。われわれは江戸時代の大名が持ち得なかった様々な富を持っている。大名はテレビもクルマもクーラーも持っていない。ペニシリンも抗生物質も手に入れることができない。しかしそれでもなお、大名は裕福でわれわれは貧乏なのである。
 貧困は格差によって生じる。そもそも人間の能力にどれほどの差があるのだろうか。この社会において収入の差が100倍あっても人はそれを不合理と感じない。しかし、ひとりの人間の能力が他の人間の100倍あることなどあるのだろうか。
 同一労働=同一賃金でさえ成立しない社会にこんなことを言ってもむなしいだけなのだが。

  

08/5の
亭主口上
 このごろ非常に危険なことが流行っている。
 他人を巻き込む硫化水素自殺とか、「普通」の少年による無差別殺人、そして死刑である。
 おそらくこれらはある部分で同じ価値観を持っている。すなわち、人の命の重みに鈍感だということだ。

 硫化水素自殺が特異な点は、手軽で楽(本当に楽かどうかは知らないが)な方法だから他人を巻き込んでもしかたないというところだ。もちろん他人を巻き込む自殺方法は沢山ある。しかし、硫化水素の場合は「危険」の張り紙をするなど、自殺者が明確に他人に危害が及ぶことを自覚しているところが特殊なのである。
 一方、岡山駅でサラリーマンをホームから突き落とした少年や、タクシー運転手を殺した19歳少年自衛官の事件など、このひと月ほどに起きた事件で、犯行の動機はともに「死刑になりたいから」だった。つまり殺人が一つの自殺の方法として行われたのである。
 こうした、人間をかけがえのない一人の人間と思うことが出来ず、他者を自殺の手段にしてしまう、そこまで行かなくとも巻き込みも仕方ないという意識は、「頻度とか人数とかは別に意識していない」とうそぶき二ヶ月ごとに機械的に死刑を執行する鳩山邦夫法相の感覚とどこか通底しているものがある。
 もちろんそれは彼らだけの問題ではなく、「今」の日本社会全体を覆うものでもあるだろう。

 死刑廃止を求める人の割合が激減するのに反比例して、死刑判決の数は激増している。しかし、一方で殺人事件による死者数はほとんど変わっていない。
 死刑の強化では犯罪抑止にならないことがわかる。それどころか今日では前述のように「死刑になりたい」という動機を生み出し、逆に犯罪の誘発原因にさえなってしまっている。
 しかしそれなら何故このような厳罰化・死刑強化を求める世論が生み出されてきたのか。

 先日の光市母子殺害事件の高裁差し戻し裁判での死刑判決。もちろんそれ以外の可能性はなかったので驚きはしなかったが、しかしこの裁判には何か納得しがたいものを感じる。
 判決では、被告の元少年が差し戻し審になって殺意を否認し新しい供述を展開したことを「不自然不合理」と言っているが、それを言うなら、最高裁が差し戻しを言い渡したことがそもそも「不自然不合理」だったのである。
 この事件で一審、二審ともに無期懲役判決が出されたのは一般的な妥当な判断だった。それをなぜ最高裁は強引にひっくり返さなくてはならなかったのか。
 マスコミの影響ではないかと勘ぐってしまう。BPO(放送倫理・番組向上機構)でさえこの事件に関してテレビ報道が偏向していると警告した。
 裁判官がマスコミ報道に左右されたとしたら大問題である。ましてや今後、裁判員制度が始まれば、こうした問題はもっと深刻になるだろう。
 被害者遺族が死刑を求める発言をするのは当然かもしれないし、報道はそれを伝える義務がある。しかしマスコミが被害者側をヒーローにして、正当な業務として弁護活動をしている人たちを悪者扱いしたら、いやでも人々は予断を植え付けられてしまう。
(なお、長くなるのであえて触れないが、ぼく自身は今回の差し戻し審自体についても、状況を無視した強権的で拙速な訴訟指揮や、計画性と殺意の認定、情状面での判断に大きな誤りがあると思っている)

 マスコミにあおられて、人々は西部劇さながらのリンチや公開処刑を求めるようになった。それは自分自身の過酷な日常生活のうさばらしとなっている。
 冒頭に書いた危険な流行と時を同じくして、もうひとつ気味の悪い犯罪が流行っている。街頭や花壇の花を大量に折る事件である。沖縄では墓地の花瓶を大量に割る事件が起きたそうだ。
 警察がやっと公開した防犯カメラの映像には、なんということもない普通のサラリーマンがチューリップを叩きつぶしていく現場が映されていた。なんでもない「普通」の大人があんなことを繰り返しているということが、この事件の恐ろしいところだろう。人々の中にどうしようもないほど鬱屈がたまりにたまっているのだ。

 現在の日本を支配している人たちにとって、死刑や厳罰化というのは国民の不満をそらすための格好の材料になっている。「あいつを吊せ!」「人民の敵!」 マスコミやネット右翼にそう叫ばせて、人々の目を向けさせる。これではまるでネットウヨが口汚く罵る中国や北朝鮮と同じやり口ではないか。
 それに易々と踊らされる日本の人々。

 民度は確実に落ちている。


08/6の
亭主口上
 来年から裁判員制度が開始される。
 マスコミ報道からはなぜか裁判員制度を歓迎するという声が聞こえてこない。実際にこの制度に期待をしている人が少ないのか、それとも報道に何かのバイアスがかかっているのか、その辺はわからないのだが
 ぼく個人としては制度の導入には疑問があるが、もし制度が始まって自分が裁判員に選ばれることがあれば積極的に参加したいと思っている。今の司法の厳罰化の流れは間違っていると思うし、その中に本来の教育刑の精神を持ち込むことが必要だと思うからだ。

 裁判員制度にはもうひとつ被害者参加人というのが新設されるそうだ。これは事件の被害者が検察側の席について直接質問が出来るというものらしい。
 近代の裁判制度は私的怨恨をはらすものではなく、社会全体の利益のために犯罪者の教育を主目的として作られてきたはずだ。このように裁判がどんどん私的なものになっていくことが果たして進歩なのか後退なのか、ぼくにはなんとも判断しづらい。

 ただひとつ言えることは、こうした大きな裁判制度の変革は、ひとつの時代の流れの象徴ではあるということだろう。つまり、社会全体の大きな枠組みが瓦解し、常識とかメインストリームが失われたことによって、社会の構成員はそれそれ独自の価値観、判断を持つようになってしまった。その結果、職業的裁判官が過去の判例や法解釈に従って下す判決に対して、従来のように社会の多数がすっきりと賛同できない構造になってきたのである。
 いま日本社会は一億総評論家などという揶揄ではなく、実質的に百家争鳴の時代に入ってしまったのだ。裁判所の判断には無数の批判が浴びせられることになった。
 このことに対して司法が(本当はもっと違う勢力なのかもしれないが)とった対処が裁判員制度だったのである。悪く言えば裁判所が「そんなに文句があるなら自分たちで勝手にやってくれ」と一般市民に責任を丸投げしたと言えるし、また肯定的に言うなら裁判が直接民主主義化していくとも言えるかもしれない。
 それはまさに裁判のポストモダン化であり、日本社会の変化の当然の帰結と言うべきかもしれない。

 ともかくも大変な世の中になっていくんだなあと、重苦しく思うのである。


08/7の
亭主口上
 洞爺湖サミットについて一言触れないわけにいかないだろう。
 とはいえ、逆にいまさら何を言えばよいのかという気にもなる。
 おそらく今回のサミットの主要課題は環境とアフリカ問題、もしかしたら石油や食料の高騰問題にも言及されるかもしれない。しかし、世界中の誰もこのサミットによって何らかの解決策が示されるなどと思ってはいないだろう。

 日本の民衆は頭が良すぎるので、こんなサミットに抗議したところで何も変わらないことがわかってしまっている。だから抗議行動も盛り上がらないに違いない(速報ではすでに中核派が都内で機動隊と激突したそうだが)。世界を支配しているG8サミット諸国の権力者たちも、実際のところ何かしたくても何も出来ない手詰まりの状況に追い込まれているのだから。

 日本ではいよいよ貧富の差が激しくなり人々は出口の見えない閉塞感にとらわれ続けている。先進国もしくは準先進国では暴動となって発現している事象が、日本においてはテロのごとき通り魔型無差別殺人や家族間殺人として発現しつつある。
 <全員平等の貧乏より少数のエリートが先頭で引っ張る社会>である「格差社会も悪くない」として規制緩和=新自由主義「革命」を断行した小泉政権の「成果」が<着々と>出てきているのだ。

 先日の秋葉原での通り魔殺人の問題は「南北問題」に似ている。収奪し続ける絶対的強者と収奪される一方の絶対的弱者。その構造が背景にあるからこそ、アメリカ帝国主義対イスラム原理主義の対立は非和解的になっていくのである。お互いの論理はすれ違い続け、相手を殲滅するまでやまない憎しみが増幅し続ける。
 秋葉原で大量殺人を行った犯人を、「勝ち組」の象徴であるテレビのコメンテーターが口を極めて罵れば、孤独を深める非正規雇用の「初めから負け組」の青年たちは、やけっぱちの暗い復讐心を心の底深くため込んでいくだろう。

 「自由競争」は平等でも公平でもない。なぜならスタートの時点からそれぞれの条件があまりにも違いすぎるからである。

 解決へ向けた方向性は一つしかない。強い者が(21世紀の世界ではそれはよりカネを持っている者のことであるが)弱い者の側に歩み寄るしかないのだ。そして公平な構造を作り出していくしかない。それは強い者から見れば「全員平等の貧乏」ということである。
 しかし、それを実現しようという勇気を持った人は大変少ない。
 人類の絶望は続く。

08/8の
亭主口上
 洞爺湖サミットでは一体何が行われたのか、さっぱりわからない。良いことであれ悪いことであれ、何らかの意味があったのだろうか。
 当初、環境とアフリカ問題のサミットという話だったような気がするが、大騒ぎし大金がつぎ込まれたにもかかわらず、この存在感の薄さはいったいなんなのだろう。

 もともと合衆国が問題にしたかったのはスーダンと中国の関係だったのだろうが、実際には地震だとか石油の高騰だとかがあってそんな話がどこかに消えてしまい、代わりにジンバブエ問題が浮上した。かといってサミットでジンバブエについて意味のある討議がされたわけでもないようだが。

 それにしても、ジンバブエ、ナミビア、南アフリカなどという国名を聞くと、心が揺さぶられる感じがする。
 1980年代、ぼくが20代であったころ、当時日本ではほとんど語られることの無かったアフリカ問題を孤独に調べていた。そのころ南部アフリカには独立国を宣言しながら少数のヨーロッパ系人種が多数のアフリカ系人種を支配する非常に歪んだ国家が存在した。それらの国々は人種差別を国策としていたが、それは究極の階級社会、現代資本主義制度の最も極端な現れでもあった。
 そんな国のひとつ、ローデシアは中でもいち早く白人支配を脱しアフリカ系多数派による政権を打ち立てた。それが現在のジンバブエである。ぼくは当時それを支持し祝福した。しかし御承知の通り、今ではムガベ大統領の独裁による恐怖と腐敗の政治が蔓延する国になってしまった。本当に残念と言うしかない。

 さて、サミットに関連してマスコミではこれまでになくアフリカ問題が取り上げられることが多かったが、その中でも目を引いたのは、「南が貧しいのは北が収奪してきたからで、だから北は積極的に援助をするべきだ」というこれまでの「正論」をひっくり返す「アフリカ自己責任論」とでもいう論調が出てきたことだ。
 たとえば最近出版されたものではロバート・ゲストという人の『アフリカ 苦悩する大陸』という本があるらしい。こうした論者は「援助をしたからアフリカの貧困が解決するわけではない。そもそも政治が失敗しているから民衆が貧しさから抜け出せないのだ」と展開する。

 アフリカの政治が破綻し、腐敗した政府や政治家、一部の特権階層が私腹を肥やしているというのは事実である。それどころか政府の機能さえ失われてしまっている国さえある。
 しかし、それは本当にアフリカ人だけの責任なのだろうか。

 考えても見よ。
 こうした構造はアフリカのみならず、先進国においても全く同様に存在するではないか。日本の制度の下では資本家がいくら「私腹を肥やしても」犯罪ではない。政治家が政治家としての特権を利用して私腹を肥やすことは禁じられているものの、資本家=支配階級が儲けること、つまり社会的富を独占的に収奪することは禁じられるどころか奨励されている。アフリカと構造自体は同じで、ただ日本ではやり方がスマートなだけなのである。
(もっとも各資本家間での富の奪い合いは存在する。ホリエモンや村上ファンドが「違法」として経済界から排除されたのは、彼らが「儲けすぎた」からではない。既存の収奪構造の間に割り込み、既存の資本家が「儲ける」はずだった富を横から大量にかっさらったからだ)

 それではアフリカが問題であって、日本が問題にならない理由は何か。
 富の絶対量が違うからである。社会的富の量があまりにも莫大なので日本では被支配階級、最貧困層がみんな餓死するわけではないというだけなのだ。

 そもそも「アフリカの失敗」などと呼ばれる問題はわずか50年程度のことにすぎない。しかしそれを遡る数百年間、アフリカは一方的に奪われ続けてきたのだ。そして実際のことを言えば、最近の50年間でさえ南が北を収奪する本質的な構造に変わりはなかった。
 今アフリカがこれだけ問題になってしまったのは、アフリカが疲弊しきってしまい、もはや収奪すら出来なくなったからなのである。

 それでもなおアフリカの貧困はアフリカの人々が失敗したせいなのだと主張するのならそれでもよい。それでもよいが、それならフェアにやろうではないか。まず収奪した数百年分の富を返し、労働力の価格を先進国と同じにして、公平なスタート地点からやり直そう。
 「アフリカ自己責任論」を言う人はそういう勇気を持って発言してもらいたい。それなら納得しよう。

 だいたい「失敗したアフリカ」の姿は植民地支配時の統治方法と瓜二つではないか。
 アフリカの人々は数百年に及んだ植民地経営をお手本にして自国の政治を運営しているのだ。失敗する政治手法をアフリカに教えたのは北の先進国なのである。先進国にアイデンティティを持つ人であれば、その点を自覚した上で考え発言すべきであろう。
 それは西洋とアフリカだけの問題ではない。日本の植民地支配を受けた国で、戦前の皇国史観教育による天皇の神格化・軍国主義・秘密警察機構などをそっくり受け継ぎ、未だにそこから脱することのできない国がすぐ近くにある。
 我々の問題として「失敗」をとらえることが出来ない限り、どこにも未来の展望はない。


08/9の
亭主口上
 これが五十肩というものか。左腕に激痛が走り、上に挙げたりひねったり出来ない。ついつい忘れて伸びをする度、痛くて悲しくて泣きたくなる。

 それはともかく、このところe-ブックオフで古本を買うことが多い。もちろん安いからだ。アマゾンを使うこともあるが、本は基本的にマーケットプレイスで古本を買う。e-ブックオフはキャンペーンがあって3点買ったら送料無料というので、とにかく安く買うことが出来た。
 しかし、そうは言いながら商品が届く度につくづく包装資材がもったいないなぁと思うし、こんなに安いのでは人件費も相当抑えられているんだろうと思う。これって自分自身の財布にとって以外、何も良いところのない商売なんだよなー。

 それにしても、インターネットとクレジットカードと宅配の普及で物の買い方が激変した。まだ10年前までは、物を買うというのは自分の足と時間を使って行うアクティブな行為だった。まず店がどこにあるのか探し、定期的に巡回しては現物を手にとって吟味し購入する。神田の古本屋街とか秋葉原のパソコンショップとか、ずいぶん歩いたものだ。
 ところが今や、そうしたものが全部ネットショッピングに変わった。むしろ直接買いに行っても見つからないものが、ネットで探せば一瞬で見つかってしまうのだ。ついにぼくが買い物に出かけるのは、スーパーマーケットを除けば、ほとんどダイソーとユニクロだけになってしまった。

 話を戻すが、最近の政治家の経済政策論議を聞いていると、あれは「上げ潮派」と言うんだろうか、人々の財産を貯蓄より投資に向けさせようとする人たちがいる。そんなこと今時よっぽど頭のいい人か、相当頭の悪い奴しかしないだろう。
 しかし、もちろん生産の現場に資金が回っていかなければ産業は成り立たない。つまり、古本ばかり買っていたのでは、出版社や著作者、書店などが立ち行かなくなってしまうと言うわけだ。
 だから、ぼくはあえて新刊書も買う。いわゆる投資は出来ないけれど、こういう時代にあっては「新しいものを普通の店で買う」という行為自体が、ある意味ひとつの投資行為なのだと思う。


08/10の
亭主口上
 とてもおかしな夏だった。

 激しい暑さとスコールが連日続いたかと思うと急に寒くなったり。麻生サンの組閣時の名簿発表では「台風が一度も上陸していない」ことが強調されていた。
 オールスター前には優勝確定と言われていた阪神がついに巨人と同率首位で並ばれてしまった。
 友人知人の身内の人が何人も入院したり大病したり、そしてぼく個人にも大きな変化が訪れた(ぼく自身のことはまだここに書ける話ではないので追い追いに)。

 政治経済も大波乱が始まったようだ。

 合衆国ではリーマンブラザース破綻に代表されるバブルの大崩壊が起こり、大統領選の混迷が深まっている。マスコミは世界恐慌一歩手前だと世の中を煽っている。
 その間に日本では福田退陣から麻生新総理誕生という自民党の最後の生き残りをかけた猿芝居が行われた。このタカでユルい内閣、早くも五日目に「成田闘争はゴネ得」「日教組解体」「日本は単一民族」という強い「信念」を貫き通した中山成彬が国交相辞任に追い込まれてしまった。
(ネット上で誰かが「黒い街宣車を人間にしたような」と評していたこの人は当初行革大臣としての入閣を求められたのに「自分は官僚のファミリーだから難しい」と断ったそうだ。ちなみに妻は「拉致問題専門家」中山恭子首相補佐官。)
 麻生丸はもう出航する前に沈没危機の様相である。

 その最中、小泉サンが突如政界引退を表明した。この人は何を考えているのかわからない。麻生太郎が自民党内で圧倒的な勝利を収め「小泉改革」の全面否定路線が始まるのを拗ねて、当て付けの新党結成という動きなのかと勘ぐってもみる。
 マスコミでは「四代目」の息子に地盤を譲ることが目的で、「小泉サンらしくない」と批判があふれた。しかし、そもそもこの人は徹頭徹尾「私」の人だったのではないだろうか。

 だいたいが、自民党にあって「自民党をぶっ壊す」ことを掲げて総裁になろうとしたところから、党人というよりは私人であった。自民党の沈没を前に最後の「劇場」を作ろうとした福田前総理の方がずっと組織人であり党的だと言えるだろう。
 小泉純一郎の業績はつまるところ日本を合衆国の51番目の州にしたことだが、その原動力としてあったのは日本の国益よりも自分個人の情念であり、具体的な形で言えば郵政民営化を実現することだった。
 小泉サンが命をかけた郵政民営化は、政治家を家業とする小泉家の私怨からこだわり続けた政策だったが、それを正当化するために合衆国の市場開放圧力を利用し、官僚支配の弊害キャンペーンを行い、官僚とくっついた派閥政治を叩き、ついには郵政選挙で内々ゲバ的選挙妨害工作(刺客派遣)さえやってのけた。
 その結果、小泉サンひとりが溜飲を下げ、日本社会はペンペン草も生えない荒野と化した。官僚支配の打破と言えば聞こえが良いが、小泉純一郎が実現したのは規制緩和という名のモラルハザードでしかない。それが国民の所得・生活格差を拡大し、一方で食品偽装に象徴される社会安全保障の崩壊を生みだした。

 彼は党の総裁、日本の総理大臣ではなく、自分のための党、自分のための国政を実現してしまった。つまり政治を私物化できることを証明してしまったのである。そしてそれはパンドラの箱を開けることでもあった。
 10年ほど前に「自己中」という言葉が流行った。ところが今はほとんど耳にしない。当時「自己中」はモラルが無い・マナーに反している人間として批判的に使われた言葉だったが、小泉政権が出現しホリエモンブームが世の中を席巻すると、「自己中」的生き方は一転、自分らしさであり個人の権利であり一種の力の象徴になってしまったのである。
 小泉時代を通じて政治も経済も「私」化してしまい、裁判でさえ私怨を晴らす場ととらえられるようになってきてしまった。小泉思想は日本社会を塗り替えた。

 そういうわけで小泉サンにとって「小泉路線」は私的なものでしかなく、自民党内の路線闘争としてやっていく気など無いから、さっさと小泉チルドレンと上げ潮派を見捨てて自民党を去ることが出来る。党もチルドレンも刺客も皆、彼個人のために利用するだけの存在だったのである。

 さて、新総理誕生→総選挙で一気に挽回を図ろうとした麻生政権は、小泉色を一掃しようとしたものの、それは古い(かつ超タカ派の)自民党への回帰でしかなかった。この状況では解散も出来ないかもしれない。しかし仮に解散総選挙だとしても民主党を勝たせるのも危うい。民主党にお墨付きを与えれば今度は民主の暴走が始まる危険があるからだ。改憲から自衛隊の国連軍参加まで一気に政治状況が進んでしまう可能性がある。かつての村山内閣の悪夢が再現されては困るのだ。
 そうした危惧を感じざるを得ないのは、皮肉なことに多くの人々が小泉思想の「洗礼」を受けてしまったからだとも言える。他人(他国の人民)のことより自分の利益が大事、他人を蹴落とし踏み台にして自分が勝ち上がっていかなくてはならない、そうしなければ自分が破滅する、という思想が蔓延してしまった。

 おかしな夏から危険な冬へ、時は移ろうとしている。


08/11の
亭主口上
 世界経済が破綻した。
 もっともこれは仕方ないことだろう。資本主義は元来、恐慌をメカニズムに組み込んだシステムなので、この7〜80年こうしたことが起きなかったことが、と言うより無理やり押さえ込んできたことの方が不自然だったのだ。
 米合衆国や先進資本主義国がどう防ごうとしても、利潤率の均衡化という重力に逆らえずに一人勝ちしていた者の地位は必ず崩壊し、新たな覇者に取って代わられるのである。今回の大激震は米欧日の経済的地位がアジア、中南米、アフリカへと移行していく大きなターニングポイントになるだろう。

 それにしても今回の事態の中でどうしても耳障りな言葉がある。「実体経済への波及」という言葉である。
 これほど現代の資本主義者の欺瞞性をあらわにする言葉はない。

 「実体」だと!

 そのとおり。確かにこれから我々の生活に直結する実体的経済生活に被害が及んでくるだろう。我々は堂々と実体が問題なのだと言おう。
 しかし、これを「実体」と言う以上、これまでブルジョアジーが行ってきた主要な経済活動は「虚空」であったと言うことになる。もちろんそれは全く正しいのだが、それではブルジョアたちは「虚空」であることを知った上で「マネーゲーム」をやってきたのだろうか。
 そのとおり。彼らはそれが実体のない虚空のものであることを充分に理解した上で「経済」を動かしてきたのだ。いや、こうなった今でも同じことを続けているのだ。

 これを不誠実と言わずして何と言うのだろうか?
 虚空の世界における「ゲーム」によって、ほんの一握りの人々が巨万の富を得る一方、多くの人々が死線をさまようような過酷な貧困状況に落とされてきた。
 ブルジョアジーがそれでも金融や投機や様々なマネーゲームも「実体」的な活動なのだと言い張るのならまだしもだが、彼らはいともたやすく「実体」などという(つまり自分たちが日々やっていることは「虚空」であることを言外に宣言した)言葉を使うのである。ひどい話だ。

 パソコンやインターネットが普及してバーチャルな世界に居所を求めるようになった若者を、多くの「大人」が非難した。しかし、そうした人々自身が実は実体のない虚空の経済世界にどっぷりと漬かっていたのである。そう、資本主義は金融資本主義に進化したとき、実体からバーチャルリアリティに変質したのである。そして、インターネットのそれよりも経済のそれは、比較にならないくらい巨大な悲劇を生み出しているのだ。

 こうした時代が永続するはずはない(もちろん、いかなる時代も永続することはないが)。
 経済を実体に引き戻すことが必要だ。少なくとも株式の市場は閉鎖されるべきである。株式会社というシステムを否定しないとしても、投資は本来的な投資として行われるべきであって、投機は絶対に禁止されねばならない。
 当然そのことによって19〜20世紀のような(あえて言えば)異常な経済発展は不可能になるだろうが、それは総合的に考えれば人類にとってプラスの選択になるはずだ。とりわけ破滅的な環境破壊の加速化を食い止めるためには経済発展を総体でマイナスに転じて行かなくてはならないのだから。


08/12の
亭主口上
 民主主義というのは絶望的な政体である。
 なぜ絶望的なのかと言えば、どこにも展望がないからだ。

 麻生総理大臣が「失言」連発でマスコミや政治家たちから袋だたき状態。漢字も読めないと言うことで大分からかわれてもいる。ただ公平に言うならば、麻生さんは英語は堪能だし、オリンピックに出るだけの能力もあり、漢字が読めないだけでそれほど叩かれなくてはならないのか、とも思う。
 彼が「失言」を繰り返すのは本音を言ってしまうからだろうが、端的に言えば一般的な社会常識が欠落しているのだ。なぜ社会常識が身についていないのかと言えば、彼の家業が「政治屋」だからに違いない。
 たとえばサラリーマンなどは、うっかりしたことを言おうものなら、とたんにお客のクレームの嵐にさらされ、上司から疎まれ、同僚からは敬遠されてしまう。しかし、政治屋さんの社会では、逆に大言壮語や辛辣な発言など刺激的な言葉を発する者が目立って良いのだろう。そういう世界に生まれ育った人は、常識がないと言うより常識が違っているのだと思う。

 ともかくも、それじゃあ麻生さんの代わりに誰を総理大臣にすればよいのかと問われると、誰もいないというのが本当のところだ。人材不足も極まれりと言ったところか。
 日本の政治制度の下では、政治家としての資質の有無ではなく、選挙に勝つ人が政治家になる。はっきり言うが、政治活動と選挙運動は全く次元の違う、全く意味の違うものである。まともな(と言うのは、先に述べた「常識」の中に生きる人の感覚において「まともな」という意味だが)人から見たら選挙運動と言うのはナンセンス極まりない活動である。
 政治理念がどうであれ、街宣車で名前を連呼し、有権者を見れば走っていって笑って握手をし、選挙期間中はたとえ相手が間違ったことを言っていたとしてもウンウンうなづく。そういうことをしなければ選挙に勝てないし、選挙に勝てなければ政治家としてのスタートも切れない。こんな馬鹿馬鹿しいことを、日本の政治家は永遠に続けて行かなくてはならないのだ。逆に言えば、だから政治家にはまともな人がいないのである。

 それにしても、選挙をそんな風にしているのは有権者の責任である。こんな馬鹿馬鹿しい選挙運動をしないと票を入れようとしない有権者は、政治家に輪をかけて馬鹿なのだと言うしかないだろう。そんな有権者がそんな政治家を選んでいるのである。
 子どもは親の鏡と言われる。民主主義の普通選挙制において、政治家は有権者の鏡なのだ(もちろん間違っても鑑ではない)。尊大で偉そうで狡くて自己中心的で他人のことなどちっとも顧みないアノ野郎は、あなたの、日本人の写し絵なのである。

 封建制の社会なら共和制へ、独裁制の社会なら民主主義へ、社会を転換できるという希望がある。
 しかし、民主主義には展望がない。なぜなら、私に、そして、あなたにも、本気で本当に自分自身を変えてしまう勇気がないからだ。

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