LAST UPDATE TOP>いちおしマイ・ブーム>ベニーはイイぜっ>ベニー・マードーンズについて |
サイトマップ |
ベニー・マードーンズについて
|
★はじめにベニー・マードーンズ-Benny Mardones-について日本語で書かれたサイトは非常に少ない。それは日本だけの話ではなく、たぶん世界的に言っても彼の情報はそんなに多く出回っているわけではない。 ぼく自身、80年代の音楽シーンに触れる機会が少ない環境だったこともあるのか、彼の名前を知ったのはやっと90年代の終わりころだったような気がする。 ベニー・マードーンズがあまり世間の関心を引かないのは、つまり(日本でも本国の合衆国でも)彼がいわゆる「一発屋」と思われているからである。 ただ、事実だけを言えば、実は彼の歌は合衆国のヒットチャートで、おおよそ10年の時を隔ててベスト20に2度ランクインしている。もっとも彼が普通の歌手と違うところは、その歌が2回とも全く同じものだったことなのであるが。 彼の公式サイトやライナーノーツなどに散在している情報をまとめてみた。 |
★前史ベニー・マードーンズの誕生年については1948年とするもの、51年とするものなど諸説あるが、英語版ウィキペディアには1946年11月9日生れと記されている。生まれはエリー湖南岸の大都市オハイオ州クリーブランドだが、育ったのはワシントンDC近郊の人口約1200の小さな町メリーランド州サベージ-Savage-である。少年時代、エド・サリバン・ショーでエルビス・プレスリーを見てロックンロール歌手になろうと思ったという。 10代で最初のグループをつくり、メリーランドのハイスクールや大学で歌った。 「11歳の時、タレント・ショウに黒づくめの衣装で出演し、プレスリー等の曲を歌い、評判を呼んでいた」という逸話を日本版「イントゥ・ザ・ナイト」のライナーノーツで上野シゲル氏が紹介している。 海軍兵としてベトナムで従軍後、ニューヨークに出る。多少疑問も感じるがこのとき彼は21歳だったという説がある。 当時 CBS音楽出版-CBS Publishing-の社長をしていたジョエル・ダイアモンド-Joel Diamond-はベニーの才能を確かめるべく、アラン・マイルス-Alan Miles-との共作で「Too Heavy To Carry」という歌を書かせた。この曲はめでたくも2週間後にブレンダ・リー-Brenda Lee-によってレコーディングされ、ここにベニー・マードーンズはソングライターとしての第一歩を踏み出すこととなった。これ以降、彼は自分で歌った歌を含めて100曲以上の曲を書いている。 ベニーとアランのコンビはその後7曲を生み出し、作品はツイストの火付け役と言われたチャビー・チェッカー-Chubby Checker-など様々なアーティストに提供された。 ところで、彼らはたいてい自分たちの歌のデモ録音版を作っていた。ベニーが歌い、アランがピアノで伴奏を付けるスタイルだった。当時、ジョエル・ダイアモンドの下に、後に米ソニー・ミュージックエンタテインメント社長→会長になるトミー・モトーラ-Tommy Mottola-がいたのだが、彼はそのデモ曲を聴くなりベニーの歌唱力に注目した。 モトーラはベニー本人自身を歌手として売り出せると感じたようだが、ジョエル・ダイアモンドも同感だったようで、新たにベニーと歌手としての契約も結び、数ヶ月後、ホワイトホエール・レコード-White Whale Records-から、ベニーとアランの作品「Stand and Be Counted」をリリースした。ただこの時、ベニー・マードーンズという名前があまりぱっとしないと思われたらしく、この作品のアーチスト名は「Troy」とクレジットされている。 残念ながら、その後おおがかりな社内改変が行われ、これによってベニーとアランは仕事を失うこととなる。 アラン・マイルスはThe Band with No Nameというバンドを立ち上げてカリフォルニアへ拠点を移し、ベニーは友人であるインディーズ・ロッカーのDL・バイロン-DL Byron-の縁でニューヨークのウッドストックへ移転した。これが彼にとってひとつの転機となった。 ウッドストックでベニーは、あの伝説のウッドストック・フェスティバルの幕開けに登場したことで有名な黒人歌手リッチー・ヘブンス-Richie Havens-と出会う。彼は公演のオープニングアクトとしてベニーを起用し、その才能を認めた。さらにベニーは、ツアーの最中ニューヨーク市で、プロモーターのロン・デルセナー-Ron Delsener-(アメリカの音楽業界ではずいぶん有名な人らしい)の注意も引いた。 時期ははっきりしないが、この前後には、かつてオーティス・レディングOtis Reddingのバック・バンドであった「Upsetters」のリード・ポーカルにベニーが起用されたこともあったという。 そうした中で、ピーター・フランプトン-Peter Frampton-とデイヴ・メイソン-Dave Mason-(トラフィックやフリートウッド・マックにギター/ボーカルとして参加している)によるマディソン・スクェア・ガーデンのショーで、オープニングバンドに考えられていたヘヴィメタ・バンドの元祖ブルー・オイスター・カルト-Blue Oyster Cult-が、それをキャンセルするという事態が起きた。そこで急遽ベニーに出演依頼が回ってきたのである。 これをきっかけとして、ベニーは1960年代のローリング・ストーンズのマネージャーとして(そしてミック・ジャガーとの不仲でも)有名なアンドリュー・ルーグ・オールダム-Andrew Loog Oldham-やプライベート・ストック・レコード-Private Stock Records-社長のラリー・ウタル-Larry Uttall-の注意を引くことになった。 1979年、ベニーはアンドリュー・オールダムのプロデュースによってシングル「All For A Reason b/w Susquehanna Lady」とアルバム「Thank God For Girls」をプライベート・ストックからリリース。このアルバムにはイギリスのロック・ギタリストとして有名なミック・ロンソン-Mick Ronson-やハンブル・パイ-Humble Pie-のドラマーであるジェリー・シャーリー-Jerry Shirley-等がゲスト参加した。 しかし残念ながら、このレコードが発売されて間もなくプライベート・ストックは活動を停止。この時ベニーを救ったのは、ちょうどポリドール・レコード国内販売部のヘッドを引き継いだばかりのビル・マッガシー-Bill McGathy-で、彼の尽力によりベニーは1980年にポリドール・レコードに移籍した。ちなみに、このビル・マッガシーはベニーの大親友なのだそうである。 |
★成功と挫折いよいよベニー・マードーンズ大ブレイクの時が来る。ポリドールで、ベニーは新たな共作者であるボビー・テッパー-Bobby Tepper-と彼の初期の仕事をはるかに凌ぐ歌のコレクションをまとめあげた。 そして、友人でありまたスティクス-Styx-を育てたプロデューサーでもあるバリー・ムラツ-Barry Mraz-の手によって、アルバム「Never Run, Never Hide」とシングル盤の「Into The Night」が世に送り出されたのである。 周知の通り、1980年にこのレコードは全米で大ヒットとなった。ハートとソウルを感じさせるその独特のしゃがれた声と、4オクターブの驚異的な声域から、ベニーは「Voice」と呼ばれ、「Into The Night」はアメリカンポップスの定番となり、ラジオで最も流された曲のひとつになった。米国内だけで450万回以上かけられたと言われている。 ちなみに、ベニーはこの後、この歌の著作権料だけでずっと生活できているという伝説的な逸話は有名である。 このアルバムは全曲ベニーの(共作を含む)自作の歌で、上野シゲル氏が書いた日本版のライナーノーツには「彼の歌う作品はすべて自らの体験に基づいたもので、『このアルバムに収められている作品は決して作り事ではない。すべて現実のことなんだ』と語っている」と記されている。 なお、同じライナーノーツの中には、デビュー当時、プロモーション用に別にミニアルバムが作られていたという記述がある。これはクリーブランドにおけるライブの様子を納めたもので、オリジナル曲とプレスリーの歌を合わせて5曲収録されていたという話だ。 さて、しかし彼の大成功にはすぐに影が差してくる。 詳しいことは調べられなかったが、どうやら彼は当時すでに薬物依存症に陥っていたようで、それが理由で、その後彼はコンサートやレコーディングを停止し、まったく人前に姿を見せなくなった。 ポリドールで大きな人事異動があった後、1981年秋にベニーは新たにアルバム「Too Much To Lose」をリリースした。しかし麻薬問題とそれに付随した(と公式サイトに書かれている)ポリドールとの金銭上の問題が大きくのしかかり、結局このアルバムは失敗に終わってしまった。 ベニー・マードーンズは音楽シーンから消え去った。こうして彼はただの一発屋として人々の記憶から忘れ去られていく運命にあったのだが… だが、世界中でただ一カ所、ベニー・マードーンズを忘れない土地があった。それがニューヨークのシラキュース-Syracuse-だった。 |
以下続く |
主な参考文献等
http://www.bennymardones.com/bio.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Benny_Mardones
「ベニー・マードーンズ/イントゥ・ザ・ナイト」
解説文: 上野シゲル/Shig
POLYDOR K.K. P00P 20268