「トントベイ」

 朝。ぼくは、バス停から高校へ向かう長い一本道を歩いている。ぼくの目の前から、遠くの高台の上にくすんでみえる高校の校舎まで、ずっとつめえりの黒い流れがつづいている。ふりり返ってみると、ぼくの後にもずっと黒い流れができている。これだけの人間が、あの小さな校舎の中に入ってしまうのだ。蟻の列、いや、これはもっと生気のないもの。
 いけない。こんなことを考えていてはいられない。今日はテストがあるのだ。英語の単語を、ちゃんと憶えているだろうか。口の中で単語を繰り返し、つづりを空中に書いてみよう……。だめだ。歩きながらでは神経が集中できない。はやく学校について、机の上で書かなければ。
 鞄が重たいなあ。なんでこんなに鞄が重たいのだ。手のひらが痛い。うでがだるい。手を持ちかえてみてもだめだ。暑くもないのにじっとり汗が出てくる。あと、どのくらい歩けばいいのだろう。
 無生物的な流れ、テスト、英単語、教師、クラスメイト、鉛のような鞄。
 ぼくは、いったい今何をしているのだろう。高校へ毎日通うことが、ぼくの人生なのだろうか。宇宙の時間と大きさの中でくらしているというのに、ぼくの生活は、なんてせせっこましいのだろう。宇宙の大きさからみれば、学校なんて、全く意味のないことじゃないか。ぼくは、今まで、こんなくだらないことに、固執していたのか。自分のしていることが、ものすごくばからしく思えてくる。
「やめた。」
 ぼくは、立ち止まって、鞄を地面に放り出す。
 そのとたん、世界は変わった。なんて自由なんだろう。ふと見ると、つめえりたちが、ぼくを追いこして、黙々と歩いていく。この流れは、今度は本当に、生きている自分とは全く違った、無機物であると確信できる。
 ぼくは、黒い流れの中からぬけ出し、道路を横切って反対側に立つ。こうすると、もっと客観的に、流れを「観察」できる。しかし、もう「観察」する気にもなれない。
 さて、これからどうしようか。とにかく流れと反対の方向に歩いてみる。と、小型のオートバイが一台止めてある。ためしに、またがってみる。エンジンをふかしてみる。うん、いい調子だ。とうとう、走り出してしまう。すぐ、バス通りにぶつかる。なんとなく右へまがる。
 ぼくは、どこへ行くつもりだったのだろう。気分はとても良い。ふと「トントベイ」という言葉をおもいつく。おもしろいひびきだ。でも「トントベイ」ってなんだ?国の名前かもしれない。国の名前にしよう。そうだ、「トントベイ」は、太陽と自由の国なのだ。ぼくは、「トントベイ」に行く途中なのだ。でも、どこにあるのだろう。はっきりとはわからない。ただなんとなく、今走っている道が、まっすぐ「トントベイ」につづいているような気がする。たまには、自分の第六感を信じてもいい。
 しばらく行くと、丁字路になって、道路は終ってしまった。ぼくは、止まって、むこうから歩いてくる中年の男に聞いてみることにする。
「あの、申し訳ございませんが、『トントベイ』へは、どちらの道を行ったら、よろしいのでございましょうか。どうかお教え下さい。」
「なんですって。どこ? ここはKというところだけれど。どこへ行くって?」
 男はとぼけているのだろうか?
「ト・ン・ト・ベ・イ。」
 ぼくは、はっきり発音する。しかし、男は不快そうな顔になり、行ってしまう。ぼくには、男の行動が理解できない。
 しかたがない。ぼくは、左の方へ行くことに決心する。
 潮の香りがしはじめる。海が近いのだろう。そういえば、「トントベイ」は海のそばにあったのだ、と、とつぜん思い出す。きたならしい家並をつきぬけると、砂浜が現れる。どの辺にあるのだろう。ぼくは止って、そばにいた中年の女に聞いてみる。
「『トントベイ』は、どの辺にあるのか、お教え願えないでしょうか。」
 聞いたことがないと、女は言った。急に、ぼくは不安になる。ひょっとしたら、通り過ぎてしまったのだろうか。それとも、ぼくの記憶違いだったのだろうか。ぼくは狼狽する。
 しかし、ぼくは、自分の失敗に気づく。「トントベイ」は、海のそばではないのだ。「トントベイ」は、山にあったのかもしれない。そうだ、山にあるのだ。ぼくは、山にむかって走る。
 どのくらい走ったか。ぼくは、両側に木が繁る砂利道を走っている。「トントベイ」は近づいた。感覚的にそれがわかる。しかし急に、目の前に、白と黒に塗りわけた車が見える。灰色の服を着た男たちが、ぼくを止める。「メンキョ」とか「ジューショ」とか、その男は言うのだが、ぼくには、彼の言っていることが理解できない。
 「ぼくには、あなたのおっしゃっていることが、わかりません。」と、ぼくが言うと、灰色の男たちは、わけのわからない言葉でどなりながら、ぼくをとりおさえにかかる。ぼくは抵抗する。
 なんとか、逃げなければ。このままでは、自由をうばわれてしまう。えい。くそ。やめろ。ぼくが、どんな悪いことをしたというのだ。ぼくは、「トントベイ」に行かなければならないのだ。しかし、むこうは、容赦なくぼくにかかってくる。いくら抵抗してもきりがない。しだいにぼくは疲れてくる。何発か殴られて、とうとう体の自由をうばわれてしまう。
「なぜだ。」
 ぼくは叫ぶ。涙が、とめどもなく流れる。くやしさと、悲しさと、怒りと、その他いろいろな感情が、いりまじるが、涙声で叫ぶことしかできない。
「なぜだ! 」
 ぼくのトントベイは、すぐそこにあるのに。

―了―

1977年6月