「黒猫と蝉とヒヨドリ」

 ぼくが、冷房のきいた、デパートの喫煙コーナーで、ベンチに腰かけて居眠りしていたら、肩をぐいぐいと揺すられた。
「もしもし、ここで眠っちゃだめですよ。」
 空色の制服を着た、ガードマンだった。
 ぼくは、薄目を開けて、ぼんやりと彼の顔を見上げ、そして、また、目を閉じた。
「だめだったらぁ。」
 今度は両肩を揺すられる。
 仕方なく、ぼくは胸に抱きかかえていたアタッシェ・ケースを降ろして立ち上がり、うーんとひとつ、のびをした。
 昼食を食べると、どうしても眠くなる。次のお客との約束の時間まで、しばらく間もあったし。背広の背中のしわを伸ばし、ポケットにつっこんであったネクタイを取り出して、首に巻き付ける。
 ガードマンは、疑り深そうな顔をしながらも、リノリウムの床にコツコツと足音をたてて、向こうに立ち去った。
 そのとき、風が、さわさわっと吹いて、すぐ目の前の草の茂みの中に、真っ黒いのが一匹、白っぽいがよく見ると薄い金色をしたのが数匹、柔らかそうな毛皮に包まれた小さな獣達が、ひょこひょこと体を揺すっていた。
 黒いのとは、目があってしまった。そいつはじいっとぼくを見つめてきた。よく見ると、黒猫だった。
 だれとかさんが、お待ちですので、四階、紳士服コーナーまでおいで下さい、とか何とか、独特のイントネーションの、鼻にかかった若い女性の声が、アナウンスしているのが聞こえた。
「猫の作法では、お互いの目を見てはいけないことになっているんじゃないのかい?」
 思わず、ぼくは言ってしまった。
「おまえの方が、先にこっちを睨むという不作法をはたらいたんだぜ。」
 と、猫は、クイッと視線をそらしながら早口で言った。
「そりゃどうも。」
 エスカレーターでは、男の子と女の子がステップの動きと反対の方向に降りて行っては、また登ってくるという、小さな冒険に夢中になっていた。
 ぼくは、猫を無視することにして、アタッシェ・ケースを持ち替えると、下りエスカレーターの方に歩き始めた。
「どこ行くんだい?」
 黒猫が聞いてきた。
「お客さんのとこ。ぼく、営業マンなんだ。」
 ぼくは、なるべく、関わりたくないなと思いながら、答えた。
「ふーん。」
 黒猫達は、ぼくの後を追ってきた。どうやら、しばらくは、つきあわなくてはならないようだ。仕方がないか。
「そっちの白っぽい連中は何?」
「何?」
「その、少し金色がかった毛皮の……」
「あー、これ? テンだよ。」
 あいかわらず、視線をそらしながら、面倒くさそうに猫が答える。
「テンってこんなんだったっけ。」
「何。俺のこと疑うの?」
 猫は、ぼくの方はわざと向かないで、左手の藪を鋭く見つめたまま、小さな声のものすごい早口で言った。
 ぼくは、エスカレーターに足をかけながら、やはり小さな声で、
「そんなことないけど。」
 と、答えた。その時、思いがけず突然、猫はぽーんと跳ねて、ぼくのネクタイに飛びかかってきた。実に器用に、背広の内側に手を突っ込むと、何かを爪に引っかけて、また、ぽぽぽーんと、飛び跳ねるように「テン」達のいるところに戻っていった。
「おい、ちょっと。」
 黒猫は、どうやったのか、ぼくの背広から抜き取った名刺入れから、ぼくの名刺を引き出して、頭をかしげながらそれを眺めた。
「株式会社クリア・エコ……。何の会社だい?」
「家庭用浄水器とか、空気清浄機とか、そんなものを扱ってるんだ。」
「ふーん。俺には関係ないな。」
 ぼくはぐるりと周りを眺めた。どこまでも続く緑の丘陵。ところどころに点在する森と林。青い空と真っ白で巨大な入道雲。
「たしかにね。」
 ちょうど、エスカレーターの終わりだったので、危うく転びかけてしまった。
「名刺入れ、返してくれよ。それがないと仕事にならないんだ。得意先の人からもらった名刺もはさんであるし。」
「俺、チョコ・スフレ食いたいんだけど。」
 黒猫は、前足で顔を洗う仕草をしながら言ってくれた。
「このっ。」
 ぼくはやむなく、エスカレーターを乗り継いで、地下の洋菓子売場まで、降りていった。こんな猫のご機嫌を取るのもしゃくだが、だいぶ油を売ってしまったので、お客さんとの約束の時間が迫ってきていたのだ。
 ぼくがケーキを買っている間(それが、チョコ・スフレというお菓子なのかどうか、ぼくには本当は自信がなかったが)、黒猫は黙って顔を洗い続け、テン達は落ち着きなく、起こしたからだをくねくねと揺すっては、周りを見回していた。
「ほら、スフレ……」
「……っもう、やかましいなぁ。あいつら、今日という今日は絶対焼き殺してやる!」
 黒猫は、ぼくの差し出したケーキの小箱なんか、全然見向きもしないで、突然遠くを睨み付けた。
「え?」
 ばっと、優雅な身のこなしで体を反転させると、猫はものすごい早さで走りはじめた。テン達も毛皮を柔らかく光らせながら、その後をいっせいに追った。
「ちょっと、ちょっとぉ。」
 ぼくはあわてて彼らを追いかけた。荷物を両手にぶら下げて、狭いショーケースの間を走るのは大変だ。ついつい前から歩いてきた、きんきらきんの太ったおばさんとぶつかってしまった。
 おばさんは、顔を真っ赤にして、わなわなと震えている。
「すいません。これはお詫びのしるし。」
 ぼくはとっさに、ケーキの箱をおばさんに押しつけると、猫とテン達を見失わないようにと、(おばさんが何か言わないうちに)再び、たったと駆け出した。
 ぼくが、階段を、二階と三階の中間まで、息を切らして駆け上ったところで、黒猫はやっと立ち止まった。
 壁の部分のほとんどが窓ガラスになっている踊り場に、ビルの谷間から、強烈な直射日光が差し込んでいた。
 猫はちょっとした岩の上に登って、ずっと先の方を睨みつけている。テン達は岩の下の草の中で、よほど疲れたらしく、ぜいぜい言って転げ回っていた。
「どうしたんだよ。急に。」
「あれが聞こえないのかよ。あのうるさい音が。」
 えっと思って懸命に耳を傾けてみると、さやさやという風の音に混じって、遠くの方からジィーッという蝉の声が聞こえてきた。
「蝉……」
「まったく、あいつらときたら、毎日毎日ジージーとうるさい騒音を出しやがって、今日という今日は勘弁しないからな。」
 そういえば、蝉の声は猫が顔を向けている方向にある小さな林から聞こえてくるらしい。
「そんなにうるさいというわけじゃ……」
「あんたとは違って、」
 猫は、わざとゆっくりとした口調で、人を小馬鹿にしたように言った。
「俺は『でりけーと』なんでね。」
 ほらよ、と言って黒猫はぼくの方に名刺入れを投げてよこすと、まっすぐ林に向かって駆けていった。そのしなやかな姿は、美しいといっても良かった。ぼくは、ちょっと、見とれてしまった。
「まったく。」
 ぼくが追いついたとき、猫とテンは一本の木の下にたむろしていた。黒猫はじっと座り込んだまま、獲物をねらっていた。
 確かに、ここまで来ると、蝉の鳴き声はもう、話も聞こえないほどの大きさになっていた。
 ぼくは、猫の耳元に怒鳴って言った。
「ねえ、蝉っていうのはさあ、何年も土の中で暮らしていて、やっと地上に出られたんだよ。それも何日も生きちゃいられないんだ。少しぐらい勘弁してやりなよ。」
 猫は、ぼくの方を振り向きもしないで、
「それなら、なおさら許せないね。わざわざ死ぬ前に俺に迷惑をかけようと、のこのこ這い出してくるなんて。生涯地面の下にいればいいものを。」
「そういうわけじゃ……」
 猫はいつの間にか前足に火のついたマッチを持っていた。どうやって持っているのかは不思議だったが、今はそれどころではない。
 テン達は忙しげに走り回っては、どこから見つけてくるのか、枯れ枝や木の葉など、たき付けになりそうなものをせっせと集めてきては、山を作っている。
「おい、待てよ!」
「今日こそ、焼き払ってやるっ。」
 と、その時、一羽のヒヨドリがパタパタッと飛んできて、木の幹にとまった。
 ピョーォと一声鳴くと、パクッと蝉を一匹くわえた。
「あ」
 そして、また一匹。
「ちょっと……」
「あぁぅ!」
 ヒヨドリは、ぼくと猫が、あっけにとられている間に、すました顔で、パクッと蝉を、もう一匹食べた。
 そして、もういっぺん、ピョーォと鳴いた。