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ふたつのスピカ夕凪の街 桜の国


「夕凪の街 桜の国」(マンガ) こうの史代

 「夕凪の街 桜の国」(こうの史代)は、たぶん朝日新聞の書評欄で紹介されていたのを見て、行きつけの本屋に取り寄せてもらおうと思ったら、一冊だけ置いてあると言われて購入したものだった。その後どんどん増刷されたらしく、どの本屋でも平積みされるようになって、ついには手塚文化賞を取ってしまったのだが。

 ものすごく良いかと聞かれれば、そうでもないと言うしかない。しかし良心的な作品ではある。確かにこのテーマは難しいのだ。ふわっとした作風は良い。気になるのは、偶然だろうが同じ頃公開された映画「父と暮らせば」(未見だが)とテーマが重なるような感じがすること。生き残った者の罪悪感。こっちはもともと井上ひさしの原作だそうで。

 さて、ただなんとなくだが、この本の完結編である「桜の国2」の次が描かれなければならないんじゃないか、という気がする。「夕凪の街」はその時代の象徴である原爆に巻き込まれたその時代の庶民の物語として完結しているのだが、そこから過去の原爆とその後の庶民の物語である「桜の国」に展開してきたのであれば、現代の原爆・戦争と現代の庶民の物語が必要なのではなかろうか。

 中学の国語の教科書で「黒い雨」を読んで以来、ずっと引っかかってきたことがある。原爆小説(原爆モノ)は、その悲惨さを表現しようとすればするほど自然災害のような印象になってしまい、戦争というものの愚かさよりも、その被害の大きさに目が向けられてしまうのではないかという疑念である。そうした中、「夕凪の街」の主人公である平野皆美の「嬉しい?/十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て『やった! またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」というセリフには大変感心した。まさに原爆を戦争という国家権力の愚行の中に位置づけることに成功した秀逸なセリフである。

 この鮮明なメッセージがあるが故に、連作となる「桜の国」二部作が物足りないというか、現代と切り結ぶシャープさに欠けているような感じを受けるのだ。激しい嵐が終わった後の夕凪の街は、それはそれで分かるけれど、今の日本が短くも美しく散っていく桜の国というのでは、ちょっと違うんじゃないだろうか。桜の国の中では過去の戦争に良くも悪くも呪縛された人々がコップの中のように暮らしているのかもしれないが、桜の国の外には暴力と虐殺の世界が広く存在しているのであって(というより実は日本の中にも米国の実戦部隊が駐留しているのが現実だが)、「広島のある日本のあるこの世界を愛」そうとするのならば、現代のヒロシマに取り囲まれているこの日本の中で、どう生きていこうとするのか、その物語が必要なのではないかと思うのである。
05/06/09
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「ふたつのスピカ」(マンガ) 柳沼 行


 青春物語が美しいのは、絶対に手に入れられないものを、それでも追い求めざるを得ない物語だからである。だから、目的を達し充足してしまったとき、青春物語は俗物物語に変化するしかなくなるのだ、たとえば「巨人の星」のように。

 さて「ふたつのスピカ」もまた、美しい青春物語であった。物語のバックボーンにある獅子号事件が暗喩するように、この物語は「人は宇宙に行けない」物語なのである。だからこそ物語の舞台はひなびた田舎町であって、決して宇宙は描かれない。その代わり(?)此岸の者には決して行くことの出来ない彼岸の世界が(幽霊を含めて)執拗に描かれる。少なくとも長編化した連載作以前の「スピカ」は、そういう物語だったのではないだろうか。

 物語が延びていけばいくほど作品の力が落ちていくような気がするのは、彼岸であった宇宙が次第に此岸に近づいてくるからである。物語の最終的な結末がどのようなものになるにせよ、主人公たちは確実に宇宙飛行士に近づいていく。物語の要素上は、だから宇宙以外の「彼岸」が必要となり、片思いや別れが持ち出されてくるのであろう。

 考えてみれば、日本のマンガ文化に決定的な影響を与え続けている「鉄腕アトム」シリーズも、人間の子供の役割を担うべく作られたロボットが永遠に人間にはなり得ないという悲劇を根底に秘めているからこそ、壮絶な美しさを放っているのだ。

 けっして作品を批判しているわけではない。そうではないが、青春物語のはかない美しさを保ち続けることはとても難しいことだと思うのである。
05/06/09
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