戻る

10年の亭主口上


10/01の
亭主口上

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

 通常の年ならホームページもお正月用の特別版を用意するのだが、今年はギリギリ大晦日の夕方まで努力はしたが、結局あきらめた。
 というのは、先月の、つまり年末の最後の十日間ほど、メインで使っているパソコンがクラッシュしてしまい何も出来ない状態になってしまったのだ。
 自分が使っているマシンの中では一番新しいものだったのだが、突然起動しなくなってしまった。
 電源ランプは点くし、ハードディスクやCPUクーラーは廻っているのだが、ピッという起動ブザー音がしない。当然ディスプレイにも信号が送られない。こういうクラッシュは初めてだったので原因がわからない。
 おそらくマザーボードかCPUがお亡くなりになったのだろうと思われるのだが、それを確かめる方法がない。
 データはおそらく大丈夫だと思ったし、一応リムーバブルケースで接続してある別のハードディスクにもバックアップがとってあるので最悪の事態と言うほどでもないのだが、それにしてもデータだけ残っていてもシステム自体を復旧しないと作業が出来ない。
 メールチェックくらいはサブマシンでWWWメールを使うことで何とか出来るのだが、終わっていない仕事もあり、とにかく作業環境を復元することにかかりきりという状態になってしまった。

 まあその辺の顛末はまた落ち着いてから「PC戦記」にでも書くつもりだが、そんなこんなで年賀状も全く作れず、ホームページの改訂作業も進まなかったという次第だ。

 もうひとつ去年の年末に変わったことと言えば、急に古い知り合いから忘年会というか飲み会に誘われるということもあった。
 それも別の関係で二件が立て続けではいることになった。昨年の春くらいから節酒していて、実を言うとこのところアルコールを飲むとすぐに目が回ったりする。とは言え、勧められるものを断るような失礼なことは絶対にできません!(もちろん、酒場では人が勧めてくれたわけではない。酒みずからがぼくに「飲んで、飲んで」と勧めてくるのである)

 それにしてもこれらの飲み会を通じてお話しさせていただいた皆さんは本当に多彩な分野に進まれていた。
 それは言ってみればバリバリのビジネスマンから公的な仕事をしている人、さらに政治、マスコミ、宗教などの関係者、果てはぼくのような「ぷぅ」な人間まで、いろいろな意味でたった今もっとも新しい日本の現状を切り取ってきたような、まさに旬な人々ばかりだった。

 思えばなんだか不思議な人脈である。
 旧年中は皆様いろいろお世話になりました。
 本年もよろしくお願いします。

*なお、というわけで、今年、年賀状は一通も出してません。悪しからず。

10/02の
亭主口上
 2010年はスタートからつまずいている。

 結局パソコンの不調はずっと続き、更にハードディスクや光学ドライブを買い足したり、OSをクリーンインストールするなど、ほぼ全面的なメンテナンスを、メイン、サブ、サブサブの各マシンに施すことになり、その結果、仕事もずっと押せ押せになってしまった。

 やっとパソコン環境が安定してきたと思ったら、今度は自分の体が不安定になっている。
 一月末から体調を崩し、瞬間的に熱が8.3度まで上がった。昔ならこの程度であれば普通に仕事に行っていたものだが、さすがに低体温化している最近では久々の高熱だ。だがインフルエンザとは症状が違うので、春のアレルギーを引き金にした風邪だろうと思う。毎年重さは変わるがたいていこういう体調不良がある。
 ただ、今年はあまりにもそれが早く来すぎた感じだ。

 2月に入ってからほぼ一週間、ずっと気分が悪く、日によってはほとんど一日中寝ていることもある。寝汗がひどく、表面的には発熱していないようなのだが、感じとしては体の芯に熱があるような感じ。
 いつも通りの主夫業に戻りたいところだが、動くと急に悪化しそうで怖い。

 若い頃なら、別に気にすることもなく動き回ったろうが、この歳になればさすがに、自分が無理をすることで周りにより以上の迷惑をかけることになると分かっているので、ただただ忍耐の日々である。


10/03の
亭主口上
 あっという間に3月。
 なんだか一日過ぎるのが一瞬で、一週間はあっという間、気がついたら一ヶ月たっている。
 あれをやらなきゃとか、これをやらなきゃとか思っていざ手をつけてみると、思い立ってから数ヶ月過ぎていたなんてことばっかりだ。
 まあ別段いま何事かを急いでやらなければならないような環境にいるわけではないので、それで追い立てられるわけでもなく、今日できなければ明日、今年出来なければ来年でいいや、と言う感じ。
 ま、というわけで今月もサイトの更新が遅れてしまい…


 ところでひょんなところから次のようなインターネット署名を見つけた。
 これはなかなかセンスがあるというか、おもしろい。

「いっせいのせ」でやめよう!! 辺野古移設と調査捕鯨!!
http://www.shomei.tv/project-1460.html


 申し訳ないが、この署名の趣旨自体についてはこの欄で取り上げる余裕がないので直接上記サイトに行って確認してほしい。
 ただ一言だけ言わせてもらえば、署名者の中にあえて「この呼びかけ人は偏向している」といった趣旨の妨害コメントを書いている輩がいるが、こういうのは全くのルール違反であり、こんなことをしているとインターネットの世界はますます荒廃して行ってしまう。全く迷惑な話だ。
 実際、この署名の趣旨に純粋に賛同した人がその範囲で署名すれば良いだけのことであって、そこにわざわざ直接関係のない呼びかけ人の個人的スタンスを批判する書き込みを行うというのでは、まさにそっちの方がずっといやらしい政治ゴロ的妨害だと言わざるを得ない。

 まあ、その話を展開するのはまたの機会として、ここでは上記署名の問題とは少し離れて、捕鯨問題についてぼくが思っていることを少し述べてみたい。


 そもそも、なぜ日本の捕鯨がこんなに世界中から叩かれるのか、おそらく日本人の多くはよくわからないはずだ。
 宗教や文化の問題とか、場合によってはナショナリズムの問題として語られることも多く、確かにそういう側面からも考えるべきところがあるのは事実だ。
 しかし、世界中で行われている捕鯨の実態を知れば、いかに日本の捕鯨がゆがんでいるかが分かると思う。

 まず第一に少なくとも政治的なステージにおいては、国際社会は何が何でも捕鯨を悪だと言っているわけではない。伝統的捕鯨は民族的な文化として認められている。逆に言えば現在批判されていることは日本の伝統文化としての捕鯨や鯨食ではないと言うことだ。

 それでは日本の捕鯨とはいったい何なのか。
 次のサイトは反捕鯨サイトではない。と言うより日本捕鯨協会が公開している公式データである。
日本が調査で捕獲しているクジラ類の資源量
http://www.whaling.jp/shigen.html
      
世界の捕鯨の状況
http://www.whaling.jp/qa.html#02_01


 このデータを見ればすぐに分かることだが、各国で伝統文化として捕鯨が行われている。が、せいぜい数十頭だ。
 これに対して(なんだかわかりにくいサイト構成になっているが*注)日本とノルウェーは捕獲頭数が突出している。

*注 以前のサイトはすぐ比較できるようになったいたようだ↓
各国の捕鯨の現状
http://www.jfa.maff.go.jp/kakubu/kanribu/enyouka/hogeihan/column/kaigaigenjyo.html


 ここで特に問題になるのは、日本が捕獲数でダントツ第一位だということだけではない。つまり捕鯨をやっている国はどこも自国の沿岸で漁をしているのに、日本だけは遠く離れた地球の裏側で鯨を捕っているということだ。
 正直、これでは日本文化がどうこうと言える話ではない。ましてやこれは「調査捕鯨」での捕獲数にすぎない。もし本格的な商業捕鯨が行われるとすれば、いったいどれほどのことをしようと言うのだろうか。

 そもそも、先年のグリーンピースによる捕鯨船の鯨肉横流し暴露事件の時に明らかになったように、現実には日本国内の鯨肉需要はさほど多くはなくて、むしろだぶついているくらいである。おそらくどこかの誰かは、これからわざわざ鯨食キャンペーンをやって鯨消費量を拡大しようとしているのだろうが、そこにはどんな利益が潜んでいるのだろう。鯨問題に疎いぼくには全くの謎なのだが。

 いったいなぜこんな状況でなお捕鯨を強行しなくてはならないのか。
 アフリカではゾウやサイが象牙や漢方薬の材料のために大量に密漁され、絶滅の危機に瀕している。(まあこれだって、ほとんどの消費先は日本や中国圏な訳だが)
 飽食や嗜好や贅沢のために野生動物を狩ることが、少なくとも地球環境の危機が叫ばれる現代において許されてよいことなのかどうか、まともな人間には自明のことだろう。

 なんだか鯨が海洋資源を食い荒らしているなんていうトンチンカンな話も横行しているようだが、それこそ笑止と言うべきである。
 産業革命以前、鯨は現在の数百倍もいたのである。鯨が食べる魚の量も何百倍だった。しかしだからといって、人類の漁業が成立しなかったなどという話は聞いたことがない。
 つまり、この話は人間が魚を捕りすぎているという事実の裏返しに過ぎないのだ。

 個人的な思い出だが、ぼくが子供の頃にはやたらと不味い鯨を食わされた。もう二度と食べたくはない。しかし一方、マグロは高級品で、特に刺身は特別な食べ物だったのである。(とは言え、ぼくは実はマグロもそんなに好きじゃないのだが)
 そんなマグロが今ではスーパーやコンビニで四六時中「手軽なお値段で」買える時代になってしまった。その上、日本文化が世界に広まったおかげで、世界中でSUSHIが食べられるようになった。
 こうして今度はクロマグロが絶滅に瀕してしまったのである。

 鯨やマグロが食べられなくても、象牙やサイの角が手に入らなかったとしても、ヒトは絶滅しないだろう。しかし、人間の政治的・軍事的・経済的利益、贅沢・快楽のためにジュゴンや鯨やマグロやゾウやサイや諸々、本当に数え切れないほどの種族が滅ぼされようとしているのである。

 少しは真面目に真剣に問題を考えたらどうかね、諸君。


10/04の
亭主口上
 中国製冷凍餃子に致死性の殺虫剤が混入していた事件で、中国当局が臨時工の男を拘束したというニュースが流された。
 容疑者は貧農出身で、10年働いても正規雇用されなかったことを恨んでの犯行だという。
 日本のマスコミは中国における格差の問題が遠因だというトーンで報道している。

 しかし、それはそうだとしても、日本のマスコミの報道には何かが足りないのではないかという気がしてならない。

 まず最大の違和感は、これが中国で起こった事件だという問題意識の点である。
 曲がりなりにも中国はマルクス主義を掲げ社会主義を標榜した国家なのだ。その国において格差がまかり通り、農民や労働者の一部が最下層に落とし込められていること、このような許し難い状況が生み出されていることへの批判が欠けているような気がする。
 つまりその背景にあるのは、資本主義こそ現代における唯一絶対の社会・経済体制であり、中国とても表面上共産主義を看板にしているが所詮は日本やアメリカと同じ原理で動いているのだ、という独善的世界観なのではないだろうか。
 というより、あえて言えば、そういう価値観を日本の人々に植え付けるようなバイアスが、意図的かどうかはともかくマスコミの中で働いているのかもしれないと思うのである。

 格差は良くない、とマスコミも言うのだが、その解決の方向をマルクス主義や共産主義に求めることはない。資本主義の枠内で、適当にそこそこのところで何とかごまかせないか、と言うのが「良心的」マスコミのスタンスである。もちろんそんなことは不可能なのだが。
 まさに、今回の問題でマスコミ報道が「社会主義国なのに」という、当たり前の視点で中国を批判しないことこそが、現在のマスコミとそこに関わるジャーナリストの限界性(というか思想的な貧困?)を、図らずも示しているのだと思うのである。

 そして、もうひとつ、これはもっと不可解かつ深刻な問題がある。
 「下水油」問題である。

 実はぼく自身まったく知らず、テレビ朝日の「スーパーモーニング」の報道で初めて知ったことなのだが、いま中国は下水油=地溝油でパニック状態なのだそうだ。
 詳しいことは「地溝油」もしくは「下水油」でググってもらえばわかると思うが、ようするに現在中国国内ではヒ素の百倍と言われる猛毒性のアングラ食用油が飲食店を中心に蔓延しているのである。
 このことは日本ではほとんど報道されていない。

 しかし問題は、第一に中国旅行をする人はまず間違いなくこの下水油を口にするであろうこと、そして第二に輸入された中国製の加工食品にこの猛毒性の油が使用されている可能性が否定できないということなのだ。
 「餃子事件」であれほど大騒ぎしたマスコミが、なぜこんな重大な問題を報道し、人々に警告しようとしないのだろうか。全く不可解と言うしかしない。

 さらに中国ではいよいよ日本人に対する死刑執行が行われるという。鳩山総理は遺憾の念を表明しているが、そもそも日本でも中国人に対する死刑執行をすでに行っているし、今回の日本人死刑囚が麻薬密輸という重大な犯罪を行ったことは事実で同情の余地がないとも言える。いったい何が遺憾なのか。
 もしこの問題を真面目にとらえようとするなら、死刑制度の是非という根本問題に踏み込まなくてはならないはずだ。
 今回の死刑執行は皮肉と言えば皮肉、当然と言えば当然のことで、それはまさに日本と中国がアメリカ合衆国と並ぶ現代国際社会における死刑大国であることの象徴なのである。

 中国は明らかに21世紀最大の「困った国」になってしまった。
 チベットなどの少数民族への人権侵害こそオリンピックがらみで大きく取り上げられたが、アフリカ大陸における大規模環境破壊など、日本のマスコミはあまり伝えようとしないが世界規模の問題を数多く抱えている。
 しかし、たとえば先のクロマグロ漁獲禁止騒ぎでは、まさに日本はその中国のアフリカへの影響力に頼んで自国権益(あれが本当に日本にとって益だったのかどうか大いに疑問だが)を確保した。それは暗黙の共同戦線であり、同じ穴の狢だと言うことが出来るかもしれない。CO2の排出量だって、確かにこれまで日本や欧米は出し放題に出して大もうけしてきたと言われれば反論のしようがない。

 まさに21世紀中国は20世紀日本の写し絵と言って良い。つまりいま中国を批判しようとすれば、それはそのまま日本の自己批判にならざるを得ないということなのである。
 ここでぼくたちは真摯に歴史と現状を見据えることで、中国をまっとうに批判し、そして自らを省みて生き方を変えていかなくてはならないのではないだろうか。


10/05の
亭主口上
 最高刑が死刑の罪にあたる犯罪に対して、公訴時効を撤廃するという法改変が行われた。しかも全く異例のことに、たった一日で採決→成立→施行されたのである。
 最初に言っておくが、ぼくは時効撤廃が良いことなのか悪いことなのか、今は判断することができない。国民の大多数がそれを求めるのなら、それでよいのだろうけれど。
*   *   *
 ただ、時効撤廃問題についてよくわからないところ、疑問に思うところは沢山ある。

 まず、この問題について、政治家もマスコミも非常に無責任であるような気がする。
 確かにずっと問題にされてきた課題ではある。だが今回、国会でちゃんとした論議はなされたのだろうか。いつどのように、どんな意見と質問があったのか、もちろん報道はされたのだろうが、ぼく自身の記憶にはまったく残っていない。
 気づかなかったぼくが悪いのかもしれないが、拙速審議だった可能性はないのだろうか。

 特に最も重要な点は憲法問題である。
 第39条の「何人も、実行の時に適法であつた行為(中略)については、刑事上の責任を問はれない」という原則があるのに、今回の時効の撤廃・変更が過去の事件にさかのぼって適用されるというのは、果たして適正なことなのか。
 確かに「これが正義ってもんだよね〜」とテレビドラマなら納得するかもしれないが、そもそも戦後ずっと誰も憲法を守ろうとしてこなかった、あまりにも憲法が軽視され続けてきた我が国で、またもや軽々と違憲の疑いが強い改「正」が行われてしまったのだろうか。

 おりしも憲法記念日を直前にしてのこの国会の姿は、とうてい真面目に司法に関わろうという姿勢とは思えない。選挙が近づいてきて焦った議員たちによる政治パフォーマンスでしかなかったのではないか。

 ジャーナリストの大谷昭宏氏は、テレビのコメントで今回の政府・国会の対応を諸手を挙げて賞賛していたが、別の問題だったら(自分が反対している問題だったら)絶対に審議不十分、論議が尽くされていない、暴挙だと言い立てるに違いない。
 ちなみに同氏は民主党小沢幹事長に対して検察審査会が起訴相当の議決をしたことを批判して、証拠が不足しているのに起訴したらえん罪が生まれる危険があると、意味不明なコメントもしている。
 まず第一に本当に証拠が不足していたら(時効撤廃の結果、50年も60年もたって立件される事件じゃあるまいし)裁判ではむしろ被告に有利になるはずだろう。第二に裁判は憲法上規定されているとおり、あくまでも被告の権利を保証するために開かれるものであって、検察が起訴したら100パーセント有罪にするという日本の刑事裁判のあり方の方が歪んでいるのである。そもそも大谷さん、なんだかいつもと言ってることが違ってやしませんか?

 大谷氏が底の割れたとりわけ程度の低いジャーナリストであるとしても、マスコミ全体を通じて、この国家の根幹に関わるような重大な憲法問題に切り込まないのは、あまりにも露骨なダブルスタンダードではないかと思ってしまう。
 繰り返して言うが、ぼくは時効撤廃が悪いと言いたいのではない。ものごとを公平に適正に進めないのは間違いの元だと言いたいのである。
 自分に不利なことは認めず、有利なことなら目をつぶるというのでは、違った価値観を持った人々が平等に共生できる社会は作れない。自分に都合が悪いことでも一段上に上がった視点から正否を判断しなくてはならないのであり、とりわけジャーナリストはそういう公正な目を持つことを求められる職業なのである。
*   *   *
 ところで、ぼくが今回の時効撤廃問題で強く感じたのは、国家の死刑への並々ならぬ決意である。注目すべきは、時効が撤廃されたのは最高刑が死刑になる罪だけという点だ。
 それでは死刑になる罪とはいったい何か。
 多くの人は死刑は人殺しの代償だと思っているだろうが、実はそれだけではない。少なくとも法文上、人を死なせていなくても死刑になり得る、つまり今回時効が撤廃されたと考えられる罪は以下のように意外にも沢山ある。

・内乱罪
・外患誘致罪
・外患援助罪
・現住建造物等放火罪
・激発物破裂罪
・現住建造物等浸害罪
・爆発物取締罰則

 公平を期すために付け加えておくが、上記の中には歴史上今まで一度も適用されたことのないものもあるし、それ以外でも基本的に人を死なせていないケースで死刑が宣告された例はないはずだ。しかし、ともかくも人を殺さなくても死刑ということは法規上あり得る話なのである。
 実を言うと上記の法律の半分以上は反逆に関わる罪である。つまり反体制の者、国家転覆を企んだ者に対しては人の生き死ににかかわらず最高刑は死刑なのである。
 死刑廃止論議で見落とされがちなのは、日本国国家は国家に反逆する者を殺して見せしめにするという最終手段を隠し持っており、まさにその権利を手放したくないという強い意志が存在していると言う事実なのである。
*   *   *
 そしてどうしてもちぐはぐな印象受けるのは、もう一方でその他の人を死なせた罪の時効が二倍に伸ばされたという点である。
 だいたいなぜ死刑相当の罪と懲役相当のの罪で差が付くのか、そしてその上なぜ人を死なせた場合とそうでない場合にさらに差が付くのか。
 交通犯罪などはもちろん最高刑は死刑ではない。しかし、被害者側の立場で見ればこんなところで人の命の重さに軽重がつけられることに納得できるのだろうか。さらに言えば、人を殺してしまうより重傷を負わせて長期の治療やリハビリが必要になったり、重い障害が残ったりした場合の方が被害者側の負担は大きい。そういう意味では結果として人が死んだかどうかが、時効延長の分岐点になるということに合理的な理由はない。と言うより間違ってさえいる。
 なぜかと言うに、そもそも最初から法律上の罪の重さが違っているのに、その上にさらに時効の長さまで大きく差が付けられるということはは、ある罪状だけ特別に重くなる、逆に言えば別の罪状は相対的に軽くなるということを意味するのである。つまりこれは上に書いたとおり被害者側からの目線で考えられたものでは全くない。

 少なくとも今回の件に限って言えば、時効撤廃の理由として何かそれらしいことが言われているのだろうが(冒頭に書いたようにぼくはその辺についてよく知らないのだが)、結局やっぱり「死刑」に特別にこだわっている姿勢が浮かび上がってくる。
 そして、人を死なせたかどうかで線引きをするということは、むしろその「死刑」という刑罰が、人殺しを罰するための刑罰だという印象を強めるための(逆に言えば死刑の本質を隠すための)レトリックになっている(意図的であるか結果的であるかはともかく)ということなのである。

 もし本当に心の底から人を殺すことがとんでもない悪行だ、他に抜きん出た大きな罪だというのなら、まず国家による殺人である死刑を廃止するべきだ、とあらめて言いたい。

 時効撤廃論議に際してよく「逃げ得は許さない」と言われるが、殺人犯の逃げ得は確かに許せないとしても、それでは小沢一郎の不正献金問題は逃げ得で良いのかという問題がある。
 もちろん価値観の相違はあるだろうが、ぼくは一般個人の犯罪より権力犯罪の方が百倍罪が重いと思っている。個人の犯罪はその範囲をはっきり見ることが出来るが、権力犯罪の影響、被害の範囲はすべてを見通すことが出来ないほど広いからだ。権力犯罪や経済犯罪は一見して人を殺していないように見えることが多いが、実はその裏で隠れたところでどれほどの人が死んでいるかわからないところがいっそう悪質なのである。

 もし、どうしても、何が何でも時効の撤廃が必要だというのなら、すべての罪に対して時効を撤廃してもらいたい。それが法治国家の平等というものではないのか。

 ついでに言えば、こういう本質的な議論からみたら些末なことになるのかもしれないが、捜査時点での容疑と起訴の際の適用法、さらに判決時の判断は必ずしも一致するわけではない。これまでもこれが恣意的に使い分けられたこともあったし、判決がより重い罪を適用することもある。時効の長さを容疑の罪状によって変えるというのは、実は原理的に難しい点があることは、一応指摘しておこう。
*   *   *
 時効撤廃を捜査当局の側から見たら、いったいどういうことが言えるのか。
 警察の責任はどうなるのか。先の国松元警察庁長官狙撃事件では結局時効までに警察は犯人を検挙できなかった。ここで警察当局はあまりにも見苦しい会見を行って恥の上塗りをしたわけだが、それでは時効が無くなったら警察はいつ被害者と社会に謝罪するのか。
 はっきり言って時効が無くなれば警察がいつ捜査を打ち切って、いわゆるコールドケースとして資料を保管庫の中に放りこんでも良くなるわけである。
 時効が伸びる、無くなるというのは、捜査が永遠に続けられるという意味ではない。
 これまでは時効が迫っている、それまでに絶対に事件を解決しろ、というプレッシャーをかけることが出来たけれど、これからは警察が自分の判断で「合理的な人員配置」をするようになり、その結果むしろ逆に捜査が十分に尽くされないケースだって出かねない。いらぬ心配なら良いけれど。

 それにしても、時効が撤廃されれば捜査資料も永遠に保管しておかなくてはならない。今の時点でさえ証拠の紛失事件が起きているのに大丈夫なのだろうか。設備は予算は大丈夫なのか。いずれにしても人間である以上、なにかを永遠に保証することは不可能である。
*   *   *
 永遠に犯人を逮捕する可能性が保証された代わりに、事件の解決ならぬ「解明」はほとんど不可能になったことも憶えておこう。
 これまでは最終的に解決できなかった事件でも、ずっと時間がたってから真犯人や関係者が名乗り出て真相を告白するということがあったが、永遠に訴追される可能性がある以上、迷宮事件は未来永劫完全に真実が明らかになることはなくなったと言える。
*   *   *
 あえて触れなかったのだが、以上のような疑問や問題点に加えて、一般的に言われているように、えん罪が生まれる危険性が高まることや、なぜ取り調べ可視化法案が置き去りにされたのかと言った問題ももちろんある。刑事被告人の防御権についてはより強力な対策が必要となろう。
 しかし、現在のような厳罰化=報復感情ばかりが強まる中で、そうした対応はちゃんととられていくのだろうか。
*   *   *
 最後に時効撤廃の社会的な効果について考えておきたい。
 時効撤廃によって犯罪の抑止効果があるとか、自首を促すことにつながるという意見もあるが、果たしてどうだろう。
 全くないとは言わないが、おそらく相当限定的なのではないだろうか。
 推理小説の話の中ならともかく、実際に時効のことまで考えて殺人を行う人間がどれほどいるのだろう。もしそこまで冷静な犯罪者なら、きっともっと用意周到にやるようになるだけだ。先月、中国における日本人死刑囚の刑が執行された話題に触れたけれど、そのときマスコミでは、中国人の麻薬密輸犯が日本人を脅したりだましたりして自分の代わりに運び屋をやらせる可能性があるから気をつけろというような話が言われていた。つまり、職業的・確信犯的犯罪者には抑止効果は通用しない。
 そもそも時効が無い国では犯罪が少ないのだろうか。
 寡聞にしてそういう研究については知らないが、おそくそんなことはないんじゃないかと言う気がする。むしろ、犯罪が多い国ほどそうやって厳しくしているのではと思ってしまう。
 あくまでも事実として言うのだが、むしろ時効制度が成立してから130年、何も変えていないにもかかわらず日本の凶悪犯の犯罪率はおおむね下がってきているというのが現実だったりする。

 こうして見てきて、時効撤廃問題はいろいろな面で死刑廃止問題と重なっているところがあることに気がつかされた。
 死刑制度について、日本では撤廃どころか強化しようという動きの方が活発である。死刑には犯罪抑止効果があるなどという迷信が(誰もそんなことを信じていないにもかかわらず)いつまでも念仏のように唱えられている(それが幻想でしかないのは上に書いた時効撤廃に抑止効果がないのと全く同じ理由である)。
 結局いろいろ言ったところで、今の日本における死刑存置論者の掲げる一番大きな理由は、被害者とそして直接には何の関わりもない「大衆」の報復感情を満足させることでしかない。
 あえて言うが、死刑によって被害者が救われることはない。被害者側を救うのはむしろ経済的・社会的・精神的な幅広く十分なケアなのである。そういう保証をする気のない社会が死刑によってそういう本質を隠しているだけなのだ。そして結果的に国家意志としての死刑を存続させる片棒を担いでいるのである。
*   *   *
 何度も言うが、ぼく自身、時効が必要かどうか判断できずにいる。
 確かにぼく個人のメンタリティは「レ・ミゼラブル」的なものなので、時間が罪を許すということがあっても良いんじゃないかとも思うが、それが感傷でしかないこともわかっているつもりだ。時効があるから寛容な社会だというわけでもないと思う。
 結論的に言えば、今回一番現実的な方法は、罪状にかかわらず全ての時効を一斉に2倍や3倍に伸ばすことだったのかもしれない。


10/06の
亭主口上
 社民党党首の福島さんが、普天間基地移設に関する日米合意に辺野古の地名が盛り込まれたことを認めず、閣議で署名を拒否して大臣を罷免され、結局、民主−社民の連立は崩壊した。

 福島さんの対応は当たり前のことで、当たり前のことなのだけれど今の日本の政治家に当たり前のことを実行できる人があまりにも少ないために、彼女がとても立派に見えてしまうのである。
 しかし、本当はここから本質的な問題を考えなくてはならないはずなのだ。
 つまり、そもそも民主党という保守政党と社民党が連立を組むというまさに自社さ政権と同じことを繰り返し、またしても失敗したことの責任論である。
 確かに民主党は「公約」として「県外・国外移転」を掲げていたのだから、その意味で第一に責められるべきは鳩山民主の方である。にしても、やはり連立内閣に参加したことの是非、もっと早く行動を起こしていれば鳩山さんの愚行を止められたのではないか等々、さまざまなことを検討しなくてはならないだろう。
 ところが信じがたいことに、ここに至ってなお、選挙が厳しくなるなどと連立離脱に反対する社民党幹部達がいるのである。党の基本政策より議席が大事なら素直に民主党に行けばよいのに、と思ってしまう。

 それにしても、社民党はともかく、政権交代が必要だと叫んで、ここ数年、共産党の独自候補擁立にさえ難癖をつけて民主党を後押ししてきた一部「左翼」は、どのように責任を取るつもりなのか。
 すでに変わり身の早い連中は、いつの間にか「鳩山打倒」とか言い始めている。
 確かに共闘や連立はひとつの戦術であり、状況によって柔軟に使い分けていくという考え方はあるのだろうが、まさにこういうやり方こそ、人々に無責任、ダブルスタンダード、信用がおけないと思われる原因だということを、いい加減学んだらどうなのか。

 もうひとつ、マスコミではこの一連の騒動を評して「社民党は何でも反対の党、対案がない」という古くさい「社会党」批判がばらまかれている。
 こういう連中はいったい何を望んでいるのか。
 彼らこそ「何でも反対」評論家ではないのか。
 基地建設に反対しつつ、民主党にも合衆国にも飲ませることの出来る対案などあると思っているのか。
 政治家は魔法使いではない。
 頭のいい評論家様に出せない答えを、政治家に求めるのは駄々をこねているのと同じだ。

 いつの時代でも、とりわけ厳しい時代には余計に、民衆はすぐれた指導者を待望する。
 しかし残念ながらそんな人はいない。
 民を越えた指導者はあり得ないからだ。我々の指導者は我々の民度に規定されるのである。
 なぜなら、ある人物に従い担ぐ人たちがいるからこそ、その人が指導者になるのだからである。これは民主主義であろうと無かろうと同じことだ。誰一人従う者のいない人物が指導者になれるはずがない。

 別の言い方をすれば、政治家がモラルを失ったのではない。理念を失ったのではない。我々がモラルを、理念を失ったのである。

 一番重要なことは対案があるかないかではない。
 反対するなら反対する意志の強さがまず重要なのである。
 冷戦が終わり人々は理想を持つことを恐れるようになった。現実主義という病気が世の中に蔓延している。
 しかし、根底に理想主義があっての手段における現実主義でないなら、理想のない現実主義など無限の現実肯定にしかならないではないか。

 今求められていることはスマートな現実的対処ではない。泥臭い理想の共有なのだと思う。


2010/6/2 追記

 6月の口上を書いたとたん、鳩山首相が電撃辞任しました。
 今日一日の鳩山さんの演説や発言を聞いて、まあなんと汚い奴だと思わざるを得ません。
 本日の民主党両院議員総会における彼の退陣演説は見事と言うしかない、実に美しく立派なものでした。だからこそ許せないのです。

 彼は自分を理想主義者だと称し、基地問題や政治と金の問題、さらには首相が職務を投げ出すことや選挙前に「党の顔を変える」ことの問題を、実に正しく批判して見せましたが、自分自身はそのことごとくをやらなかったのです。それはやれなかったのではなく、やる気がなかったからです。
 まさに似非理想主義者と言うしかありません。
 ぼくは、鳩山さんが理想主義という言葉を使ったことに強い怒りを感じます。

 彼が本当に理想主義者なら、なぜここで退陣するのか。それよりなぜ実際に問題が激化している時に、この理想主義を掲げて闘わなかったのか。
 理想主義者なら結果より過程にこだわるべきであり、結果的に失敗したとしても(つまり結果的には同じ結末だったとしても)、理想を目指す行動を示すことこそが求められたのです。
 鳩山さんはいったいいつオバマ大統領に直談判したのか?
 何の行動も起こさないどころか、自分が口にしている「理想」と全てのことにおいて真逆の行動を取った人の、いったいどこを理想主義者と呼べばよいのでしょうか。

 鳩山さんのやり方は、ほんの薄っぺらい表皮に理想主義という言葉を塗装して、内側にある自分の本性を隠す汚いやり口です。
 まさか、こんな風に理想主義という言葉を利用する人がいるとは思いもよらなかったし、なによりも一番腹立たしいのは、これは結局、理想主義に対する信頼を失墜させる悪辣な行為だと言うことです。
 まさに、小沢−鳩山民主党が、政治に対する期待感を最高潮まであおったあげく、それを泥まみれに汚しきった。それによって人々の政治に対する信頼を崩壊させ、失望・絶望へと叩き落としたのと全く同じことだと思います。


10/07の
亭主口上
 参議院選挙だが。

 小党乱立で、そのあたりがどう影響するのか興味深い。
 もっともその中身は、自民・民主を含めてほとんどが保守系野合政党で、独自のイデオロギーというものを感じない。はっきりしているのは共産党と社民党、公明党と幸福なんとか党くらいだが、これがまた政策面では似たような似ていないような…

 ところで比例区はどうやって当選議席数を決めるか知っておられるだろうか?
 ドント式という言葉は聞いたことがあるかもしれない。ぼくはかつて比例代表制導入の際にドント式に反対する陣営に与していたのだが、なんだか相当に面倒くさい数式の羅列でもう全く憶えていない。
 実は比例式選挙というのは単純なものではなく、色々な方式があるのだ。その中でも日本が採用しているドント式は小政党に不利な議席配分方式になっている。素人としては単純に割って四捨五入で考えればよいのにと思ってしまうのだが。

 選挙結果がどうなるか、この文章を書いている時点ではわからない。ワールドカップで事前の予想を完全に覆した日本代表の活躍もあるので、まあ世の中何が起こるかわからないということだ。
 ただ、いま多くの政党が「議員定数の削減」を錦の御旗のように掲げているのが気がかりである。と言うのは、このドント式の場合、当然のことながら議員定数が少なくなったときに大きな問題になってくるからだ。小選挙区制度は当然、小政党に圧倒的に不利に出来ていて、その上さらに比例区でも小政党が不利になるというのは非常に問題である。
 はっきり言って、もう世界では二大政党制などという多様な意見を反映できない政治方式は廃れ始めている。日本の二大政党論者はもはや周回遅れの議論をしているのだ。

 今の選挙制度では結局、カネを持っている者が強いと言うことにしかならない。
 そして政治家はそれを理由にして、多額の資金を政治家に集めることを正当化し、またそれを公然と追求している。
 問題は国会議員の数が多いことではない。歳費を含め議員一人に対する費用が常軌を逸するほど高額だということにある。議員の数を減らす前に、議員にかかる経費を減らすべきだ。
 もちろんそのためには選挙のやり方自体を変えていく必要もあろう。

 ぼくは以前から主張しているように、選挙運動を政治活動とは思っていない。
 政治家は議員であろうと無かろうと、彼・彼女の日頃の(本当の)政治活動と政治主張によって選ばれるべきである。と言うよりも、選挙のための(もちろん事前運動を含めた)運動は百害あって一利なしだと思う。
 選挙活動は広報を初めとした文書や演説による政治主張に限定し、その機会は公費で均等に与えられた場に限るべきである。それで何の不都合もないはずだ。

 そんなことを考えていたら、ぼくの主張とぴったりの声明が出された。
 以下のサイトも是非ご覧頂きたい。

薔薇、または陽だまりの猫
<声明 小選挙区制と二大政党制に批判を>にご賛同を!

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/e66bb2ffafc906fad25fe52f6b60d96d



10/08の
亭主口上
 多くの人はまだ気づいていないようだが、2010年7月は日本の歴史上でも最大級と言える大きな転換点となった。アミダラ女史にならって言おう。「日本の平和主義は死んだ。罵り合いと落胆の陰で…」

 かつてぼくたちは、村山政権において旧社会党の背骨がグズグズと崩れ落ち、戦後政治の右傾化の動きを一気に現実化させていくのを目の当たりにした。まさにあの時を彷彿させる事態が、菅政権を巡るゴタゴタの陰で非常な速度で進行しているのである。

 たとえば、まず7月25〜28日に日本海で大規模な米韓合同軍事演習が行われた。今回の演習は例の「北朝鮮による哨戒艦撃沈事件」への警告・威嚇のために行われたものだが、ここに日本の自衛隊が(オブザーバーという名目で)史上初めて参加した。しかし奇妙と言えるほど、この外交・防衛問題上非常に重大な事実が報道されていない。

 続いて7月26日、菅総理の私的諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」の報告書の内容が明らかになり、この中では、日米同盟を深化させることを最重要課題において日本の役割強化を主張し、その上で非核三原則を見直すことを提言。アメリカ軍による核持ち込みを容認せよと迫り、さらに現在の武器輸出三原則も批判し、日本から武器を輸出できるようにするべきだとした。
 その上まったく信じがたいことだが、これまで日本の防衛政策の基本であった「必要最小限の防衛力」という建前の「基盤的防衛力」構想を否定し、アメリカへの攻撃に対応すべく集団的自衛権を行使することを求め、なんと「敵基地攻撃能力」の必要性にまで言及しているのである。
 こんなことは自民党政権でも、一部の極右議員の発言はともかく、政府としては踏み込めない一線だったはずだ。自民党がこんなことをしようとしたら、当時野党の民主党は絶対反対を叫んだだろうし、必ず潰されていたはずだ。しかし今、軍拡に反対する政党はことごとく弱小化してしまい、なんの抵抗もなくこの提言が通ってしまう危険性が高いのである。

 そうは言ってもこれはまだ「話」の段階だが、次の報道は実はもっと衝撃的かもしれない。
 7月28日付「しんぶん赤旗」によれば、自衛隊はすでに史上初の海外基地建設に着手しているということである。
 場所はジブチ。ソマリア沖での海賊対処活動の長期化に備えて、42億円をかけて基地建設を進めているというのだ。現在、自衛隊はジブチでは米軍基地に間借りして活動を展開しているのだが、ようするにアメリカ側から出て行って欲しいと言われ、自前の基地が必要になったのらしい。
 海外基地を持った「自衛」とは、これはいったい何なのだ?!

 もうひとつ、これは大きな話題になったが、議員を落選したばかりの千葉法務大臣が7月28日に突然、死刑執行を強行した。おそらく9月の民主党代表選後には解任されることがほぼ確定されている千葉氏が、ここで死刑執行にサインしたことには大きな問題がある。
 彼女は法務大臣として初めて死刑の現場に立ち会ったとか、今後勉強会を立ち上げるとか言っているが、任期が限られている人が言ったところであまり意味があるとは思えない。そもそも、死刑を執行した大臣が死刑の存否を問うと言ったところで、それは結局、死刑存続を前提にしたガス抜きにしか過ぎなくなってしまうだろう。本当に死刑制度を国民に問うと言うのなら、執行を拒否し続けることによって初めて問題提起が出来るのではないのか。
 いったい何を考えているのか。全くの迷走なのか、それとも何か裏側に大きな力が働いたのか。

 マスコミは菅総理が民主党内で先の参議院選の責任を問われ窮地に陥っているとか、元北朝鮮工作員のキム・キョンヒ氏の来日騒ぎだとかを、おもしろおかしく報道しているが、このような本当に日本の歴史に大きく関わるような大問題をほとんど報道しようとしていない。
 ことの本質はつまり、結果的に次々と連立を解消し縛りが無くなった民主党がその本性を露わにしてきたということなのだ。

 一方有権者は、税金が数パーセント上がるとか上がらないとか、高速道路が無料になるかどうかとか、マスコミがあおり続ける目先の問題にばかり目が向いて、最も重要な平和・外交政策など気づきもしない。戦争と増税と、確かにどちらも大きな問題であるにしても、どちらの方がより我々にとって危機なのか。沖縄問題も鳩山さんが辞めたら、すっかり忘れ去ってしまったみたいだ。
 本当なら追求の先頭に立つべき社民党も、参議院で負けたの、辻元議員が離党したのと、自分の党の利害の問題で大騒ぎして、何の動きも示せない。これでは支持者に愛想を尽かされるのもむべなるかなというべきであろう。

 みんな何をそう浮き足立っているのだ。
 頼むから落ち着いて、今ある危機に気づいてくれよ!


10/09の
亭主口上
 なんだかなーの民主党代表選。
 去年の総選挙でのマニフェストをちゃんと守るべきだというのが小沢陣営が表向きに掲げている主張だが、小沢支持を打ち出した鳩山さん、そもそもあなたのマニフェストは「総理大臣をやった政治家は引退する」っていうんじゃなかったでしたっけ? トロイカ体制って、ちゃっかり自分も最高権力者の一角に位置づけて。
 どうしても政治の世界から離れられず、みっともない姿をさらして、そんなにまでして政界のドンをやってみたいですか?
 どうしたら人間、こんな「小鳩」みたいに腐ることができるんだろう。かえって不思議。

 菅と小沢、どっちもどっちだとは思うけれど、方向性は間違っているけれど手法は正しいのと、方向性が正しいのに手法が間違っている場合、ぼくは手法の正しい方を選びたい。いずれにせよ、人間は間違うのだし、どうせ間違うのなら、正しく間違う方がよい。

 さて。

 先日、初めて死刑の刑場がマスコミに公開された。
 死刑の存置派、廃止派の双方から批判が出たのは、なんだかとても奇妙な感じがしたが、いずれにしても、ある意味で国家が持つ最高の権力行使の場が公開されるのは当然のことで、もちろん遅きに失したというのが事実である。

 さて、こうした当たり前のことを当たり前のこととして指示したのが千葉法務大臣なわけだが、先月もこの欄で少し触れたけれど、ぼくはこの人を諸手を挙げて評価する気にはなれない。
 一部には千葉大臣は断腸の思いで死刑執行命令書にサインをし、歴代大臣の中で唯一、自ら死刑執行に立ち会った誠実な人という評価をする人もいるようだ。しかし、本当に彼女は悲劇の英雄なのだろうか。

 千葉大臣が個人的に死刑に反対しているのは本当だと思う。
 しかし、それならなぜ彼女は死刑を執行してしまったのか。
 いったい彼女は何と、もしくは誰と戦い、そして破れて「苦渋の決断」をしたのだろうか。史上初めての死刑立ち会いは果たして立派な行為だったのか?

 国務大臣の責任とか、国家制度の重圧とか、いろいろ言う人はいるけれど、実際にはそんな崇高な理念のレベルの話ではないと思う。
 結局のところ永田町や霞ヶ関の死刑存置派勢力の策謀に乗せられたというのが本当のところだろう。乗せられたという言い方が不穏当ならば追い詰められたと言いかえてもよいが。
 つまりそうでなければ、千葉大臣が死刑執行にゴーサインを出したタイミングの説明がつかないのである。

 先月も指摘したが、今回の死刑執行は参議院選挙で民主党が敗北し、千葉氏自身が落選したにもかかわらず、法相を継続することが決まったその直後に行われた。
 最大の疑惑は、もし本当に彼女が自分自身の責任感から死刑を執行したとするなら、なぜ選挙前にやらなかったのかということだ。
 もし本当に彼女が自分の決断を正しいと思ってやったことなら、本来なら選挙でそれを有権者に判断してもらうべきだったろう。そして千葉氏が本当に自分の意志で、自分の良心と公務の責任の間で闘った結果の結論であったのなら、本当にそういう真に重たい決断だったのなら、きっとそうしていたはずだと、ぼくは思う。
 だいたい彼女が法務大臣に就任してから10ヶ月もの時間があったのである。なにもこんなに特別な時を選ぶ理由も必然もない。

 しかし民主党の側から考えてみると、もし選挙で死刑執行の是非を問うことになった場合、それは民主党にとってマイナス材料になったかもしれない(もちろん逆にプラスの評価になった可能性もあるが)。いずれにしても党側から言えば、選挙前は事なかれ主義で行くのが最良だったろう。
 一方、死刑存置派勢力にとっても、そうなったらそれは危険な賭になっていたはずだ。つまり、千葉氏が自らの死刑執行の是非を選挙の焦点にした場合、千葉氏が落選すれば、それはイコール民意が死刑にノーを突きつけたことになってしまうからだ。
 だから選挙前の死刑執行は、党にとっても存置派にとっても、避けなければならない事態だったに違いない。

 結果的には皮肉にも千葉氏は死刑問題を焦点にしないまま落選し、しかしながら民間人の立場で法務大臣を続けることになった。民間人法相の誕生は、もちろん政治ゲームの偶然がもたらしたものだったが、それではなぜその直後に死刑執行が行われたのだろうか。

 千葉氏が死刑制度に反対する自分の意志を明白にしておきたいなら、おそらく民主党代表選後に彼女は法相を解任されるのだから、あとほんの2ヶ月がんばれば、死刑執行命令書にサインせずに退任する道もあったはずだ。
 彼女の置かれた位置は、今後何年も法務大臣を続けるかもしれない人の立場とは全く違うのである。

 しかしもちろん、そんなことになったら死刑存置派にとっては今度は逆に非常に都合の悪いことになってしまう。久々に死刑執行命令書に署名をしない大臣を作ってしまうことになるからだ。
 特に今回千葉大臣が死刑を執行しなかったら、民主党の法務大臣は死刑をしないという先例になってしまう危険があった。
 このかんの流れから言えば、鳩山邦夫死神大臣などの出現によって、最近は死刑が「機械的」に「スムーズ」にどんどん消化されるようになっていた。それなのにここに来て死刑をしない大臣の復活を許してしまったら、存置派にとって大きな痛手になりかねない。
 とりわけ、民主党政権成立後の連立内閣においては、社民党と国民新党の各代表も死刑廃止の急先鋒であったから、存置派の焦りも大きかったろう。

 しかしタイミングは絶好の時を迎えた。

 まず、民主党の連立解消などがあって閣内における死刑廃止勢力の力が弱まった。しかも法務大臣である千葉氏は有権者から政治家としての資質を否定された形なった。自信を失った千葉氏を陥落させ死刑を執行させることが出来るのはこの瞬間しかなかったのである。

 だからあえて言う。
 千葉氏が闘った相手は国家とか法律とか責任とかではない。彼女は死刑存置派の官僚や政治屋連中に負けたのである。
 それは千葉氏の側から言えば、良心と責務の間で彼女自身が苦悩して決断した結果ではない。死刑を無くされては困るという政治的思惑を持った、そして権謀術策と潮目を読むことにたけたある一部の勢力の思惑通り動かされたに過ぎないのである。

 もちろん、これまで死刑反対を唱えてきた千葉氏自身もそのまま単純に死刑執行命令を出すことは出来なかった。政治家である以上、なんらかの落とし前を付けなくてはならない。そうでなければ誰も納得するわけがない。
 それが、言ってみれば苦肉の策としての死刑執行への立ち会いと勉強会の立ち上げであり、今回のマスコミへの刑場公開だったのである。
 だからぼくに言わせれば、こんなものはイチジクの葉っぱにすぎない。
 おそらくこのまま千葉大臣は更迭され、これらのことはただエピソードの一つと化し、やがて忘れ去られていくだけだろう。ああやんぬるかな、である。

 それにしても、なんでこんなに日本人は死刑が好きなのだろう。

 そこにはたぶん一つに、島国的同一意識があるのだと思う。
 自分と違うもの、邪魔なものは、すべて排除する。そうすれば安全安心と思っているのだ。島国人は「悪いものはみんな外から入って来る」と思いこんでいる。
 しかし異端を排除してもまた別の異端が現れる。なぜなら異端とは内側から起こるものだからだ。そしてさらに言えば、それはなんらかの必然として起こってくるものだからだ。

 ただもうひとつ、日本人が死刑を好む別の理由があるように思う。
 それは、日本人の死生観、宗教観にある。
 つまり日本の文化の中には、「死」を美化し神聖化する意識がずっと流れているのだ。
 日本では人は死ぬと「仏」になり「神」になる。これは「神様の下に召される」キリスト教的な考え方とは、実は全く異なる思想である。すなわち日本では人は死ぬと浄化され、人間より上位の聖的存在に昇華する。
 武士の切腹は不名誉な自殺でも死刑でもない。崇高で潔く美しい行為ではないか。
 死刑囚も死ぬことによって浄化され、罪はきれいに消えていくのだ。人々の意識の下では死刑は犯人にとって良いことだと感じられているのかもしれない。
 死刑はだから日本人の感覚としては、オウム真理教が唱えていた「ボア」と違いがないのかもしれない。

 そうした死生観を持っている人や文化を、ぼくは決して否定するものではない。
 しかし、冷静になって考えて欲しい。
 殺人事件の犯人を殺したら、本当にその罪はなくなるのか。

 「罪」が無くなるかどうかは知らないが、その犯罪によって生まれた人々と社会に作られた傷は、いつまでも消えないはずである。
 遺族は死刑判決によって癒されるのか。執行によって癒されるのか。
 今、我が国では犯罪被害者や災害被害者への公的な精神的・経済的サポートがほとんど無いのが実態だ(犯罪から立ち直るのだって「自己責任」なのだ)。そうした制度の不十分さ、国民的な不満を「死刑」というセレモニーでごまかそうというのが、現在の死刑制度ではないのだろうか。

 死刑制度は犯罪を無くす手段にはなり得ない。
 それより本当に本気で犯罪が生まれない社会を、この社会の根本のところから見直して、作っていく努力が必要なのだと思う。


10/10の
亭主口上
 このところ、この欄に長い評論文を書いているけれど、今月は気力が出ず、本当に口上だけ。
 50歳を過ぎてから急速に体調が崩れてきた。今年は夏中ずっと倦怠感が強かったのだけれど、暑さが過ぎてからは耳鳴りと咳が収まらない。困ったものだ。


10/11の
亭主口上
 那っちゃんが死んじゃった…

 俳優の野沢那智さんが肺がんのため10月30日に亡くなったというニュースがネットに流れた。本当に本当なのかと思って二度見直してしまった。

 子供の頃、テレビで洋画や外国のドラマをよく見たものだった。友達は「ロードショー」を欠かさず買っていたし、ぼくも一時期「テレビジョンエイジ」を(ぼくにとってはとても高価な雑誌だったが)毎月買っていたことがあった。
 映画やドラマそのものももちろん重要だったが、ちょっとディープな見方をする子は吹き替えの声優にも詳しかった。
 広川太一郎、羽佐間道夫、大平透、山田康雄、久松保夫、滝口順平、愛川欽也、小原乃梨子、そんな人たちの名前を毎日テレビに見たものだった。もちろん顔は全くわからなかったが。
 そんな中、野沢那智はアラン・ドロンなどの吹き替えをやっていたのだが、ぼく個人としてはやはり「ナポレオン・ソロ」のイリヤ・クリヤキン(デビット・マッカラム)である。ロバート・ボーンが演じたソロの矢島正明との掛け合いは、スタイリッシュでかつ温かく、とても好きだった。今思えば、もしこれが野沢那智でなかったら、このドラマはこんなに印象に残っていなかったかもしれない。

 ただ、ぼくにとって野沢那智はそれ以上に「那智チャコ・パック」の那っちゃんである。
 おそらく多くの人にとってもそうだろうが、深夜放送はもう一つの学校だった。
 当時ぼくは高校生で那っちゃんは40代後半。たぶん当時人気があったのは「オールナイトニッポン」なんかだったろうが、ぼくは「パックインミュージック」だった。それはたんに電場状況からTBSが一番聞きやすかったと言うこともあったのだが、それ以上にパックのパーソナリティは比較的年配の人が多かったからかもしれない。
 正直言って、ぼくは学校全体を覆う生徒達の子供っぽさやひどい無気力感に辟易しているところがあって、大人の人の言葉に飢えているところがあったのだと思う。

 那っちゃんの言葉は鋭くて刺激的だった。「大人より子供の方が簡単に自殺できるんだよ」などと、常識的な大人は決して言わないような、しかし最も大人な見解をしゃべっていた。もちろん、その毒気をチャコこと白石冬美が優しく吸い取っていく、絶妙なコンビネーションがあったればこそだったのかもしれないが。

 それにしてもこんなに早くいなくなってしまうとは思っていなかった。
 一つ一つは覚えていないけれど、いろいろなことを教えてくれた恩師の一人だったのだと思う。


10/12の
亭主口上
 友人が死んだ。
 というよりも、数ヶ月前に亡くなっていたことを知った。

 悲しいというよりなんだか不思議な気分だ。
 彼とは高校時代の二年間同じクラスで、修学旅行の自由行動も同じで、京都の哲学の道などを一緒に歩いたのだったような気がする。クラブ活動でも同じ部に所属していた。
 考えてみれば、いま高校の同級生で連絡を取り合っているのは彼だけである。

 もう何年も顔を見ていなかったのだが、昨年末にたまたま数年ぶりに開かれたクラブのOB忘年会で久しぶりに話をした。
 彼はいつものように落ち着いていて笑顔を絶やさなかった。

 気になって調べてみたが、彼が亡くなった日も、ぼくには何も特別なことは起こらず、ただ普通にただなんとなく過ぎた一日だったようだ。
 しかし彼はその日を境にしていなくなった。
 そのことが、ぼくにはとても不思議な気がする。
 なぜ彼は死に自分は生きているのか。

 ぼくは結婚式というのには二回しか出たことがないけれど、若い頃から葬式や悔やみは数え切れないほど経験した。自分の親も見送ったし、自分より若い友人を見送ったこともある。自分がその人の死に多少なりとも関わっているような葬式に出たこともある。
 先月、野沢那智の死について書いたけれど、実を言うとこの秋は何人かの友人、知人やそのご親族が次々と亡くなった。なぜかわからない。たいして友達が多くはないぼくにとって今までこんなことは経験がない。
 人生五十年。その区切りの時期だということなのかもしれない。それにしても。

 なぜ彼らは死んで自分は生きているのか。

 死は人間の必然であると同時に永遠に理不尽なものである。

 もし友人が生きていてぼくが死んでいても、別におかしなこともない。
 なぜならぼくにとって死は存在しないからだ。
 ぼくが死んだ時、ぼくは自分の死を認識できない。すでにその時もう死んでいるからだ。認識の可能性が絶対にないことは存在しないのと同じことだと言ってよい。

 だから人間には死は存在しない。
 もう少し丁寧に言うなら、自分自身に死は存在しない。
 死は絶対的に他者のものなのである。
 死は常に生き残った者のものなのだ。
 だからこそ死はつらく悲しいのである。

 その日、友人が何事もなく目覚め、ぼくが目覚めなかったとしても、ぼくにとっても友人にとっても、何ら自分における意味が変わるわけではない。
 大きく意味が変わるのは、その家族、友人、彼を愛する人たちにとってである。

 人は人の死に対して無力だ。
 たとえその意味が同じだったとしても、ぼくと友人を入れ替えることは出来ない。
 人はその無力さに怒り、悲しみ、疲れる。そしてそれは、死が自分のものではなく、誰かの、他者のものだからこそ、いっそう強く感じられる。

 解決させるのは時間だけだ。

 この文章を読む誰かが、いま悲しみの暴風雨の真ん中にいるとしても、そしてその悲しみが永遠に心の中に雨を降らせるとしても、ぼくはあえて言いたい。
 まず3年という時間を持ってもらいたいと。
 3年間という時間が、悲しみと怒りをピュアなものにする。その時、やっとあなたが本当に進むべき方向が見えてくる。それはぼくの経験から出来る唯一のアドバイスである。


戻る