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「クルマ社会と人権」

いまのまさし

■日常的風景


 老夫婦が横断歩道のところで立ち止まっている。クルマが次々と目の前を走 りすぎていく。自動車の流れが途絶える瞬間を見計らって二人はあわてて道路を 横断していく。横断歩道とは、歩行者がクルマの途切れるのを待つための場所な のである。
 いわゆるRV車の鼻先、ちょうど子供の頭くらいの高さに、異様なバーが取 り付けられている。野生動物が飛び出してきたとき、これをはねのけてクルマの 安全を守るショックアブソーバーだ。カンガルーバーと呼ぶ。ちなみに日本にカ ンガルーが飛び出してくる道路は無い。何を跳ね飛ばそうというのだろう。
 六0キロ制限の表示のある国道。一00キロ近い速度で他のクルマを抜き去 っていくスポーツカーがいる。ドライバーはカーレーサー気分だ。彼にとって道 路は自由な遊び場であるが、もし、子供達が同じ道路で野球をして遊んでいたら 、彼はクラクションを鳴らして子供達を追い払うことだろう。
 日本全国のどこか。毎日二人の子供が、自動車事故で殺されている。毎日ど こかで通り魔が出没して子供を殺すようなことがあれば、大きな社会問題になる のだろうが・・・・。
 こうした風景は、我々にとって、ごく日常的なものでしかない。

■クルマ社会が見落としてきたもの


 「クルマ社会」という概念は、電気や水道やガス、電話やテレビと同じよう に、それ無しには社会が成立し得ないほど、自動車が社会構造の基幹に組み込ま れているという認識から生まれたものだろうと思う。なるほど現代社会はクルマ 過依存社会と言える。
 そこに様々な弊害が生じていることに、人々は最近やっと気づくようになっ た。昨今の「エコロジーブーム」とも呼べそうな世間の雰囲気の中で、自動車の 排出するCO2が、地球温暖化の最大の原因の一つだというのは、今や社会的な 常識と言って良い。
 しかし、なかなか気づかれずに来た問題もある。
 それが人権問題の側面である。
 人権問題は難しい。人種差別にせよ、性差別にせよ、障害者差別にせよ、差 別する側に自覚がないが故に、人権侵害がいくら叫ばれても、その当事者が本質 を理解できないからである。はなはだしくは、差別されている側までも、自分が 差別されている事実に気づかない場合さえある。
 クルマ社会がもたらした最も深刻な問題は、それが交通弱者を生み出し、社 会の多数派によって「イジメ」られる構造が出来上がったことである。社会のシ ステムは、社会の構成員がみんな自動車を所有し運転できることを前提にして、 どんどん再編されてきた。クルマがなければ一般的な生活が保証されない社会が 作られてしまったのである。
 交通弱者の典型は、言うまでもなく、判断力や身体能力が低い子供と老人で あり、最も極限的なイジメは交通事故死ということが出来るだろう。

■自動車という交通システムの欠陥性


 もちろん、現在の交通戦争とも言うべき悲劇的事態に対して、様々な立場か ら様々な提案が行われている。ただ、一番の問題は、どのような規則が整備され たとしても、それが遵守されなければ一切無意味だということである。自動車の 進行を強制的に制御することのできる、鉄道のATMのような安全装置は存在し ない。
 我々は日常的に、クルマによる信号無視、一時停止違反、車線変更違反、ス ピード違反、違法駐車の光景を目にしている。運転者の恣意的判断以外に、安全 性を確保するシステムが無いのが自動車という交通システムの根本的欠陥なのだ 。
 だから、もし我々がクルマを使い続けたいのであれば、ハードとともにソフ ト、すなわち運転者に極めて高い人権意識が必要とされるのである。
 しかし悲しいかな、現在大量に粗製濫造されるドライバー一人一人にそうし た意識を求めるのは極めて難しい。
 それどころか、そもそも行政や司法が、クルマ社会問題、なかんずく人権問 題に無関心・冷淡である。先日和解が成立した川崎公害訴訟で、被告の国が自動 車排ガスによる健康被害の認定をかたくなに拒んだ姿勢や、八王子分離信号裁判 での東京高裁の行政側勝訴判決(98年)など、それを例証する事例は枚挙にい とまがない。
 こうした状況下で、クルマの総量が一切規制されず野放し的に増え続けてい く以上、事故防止のために自動車のスピードを出させない方策をとろうとしても 、かえって渋滞が生まれ、アイドリングが増えて住民に健康被害が出るから反対 という声が挙がってくるのも、無理のないところだ。

■21世紀に向けて


 自動車というシステムは、効率、自由競争、個人主義を基本とする資本主義 のスタイルと大変相性がよい。
 しかし、21世紀の世界をどういうものとして構想していくのかと考えた場 合、我々はこのクルマ社会の有り様を、一度冷静に見据える必要があるのではな いだろうか。
 電化生活の恩恵を享受する自由と原発設置の問題、喫煙の自由と健康被害の 問題、クルマに乗る自由と人権や環境、資源の問題。
 現代社会では人権と人権が鋭く対立している。社会がどういう方向を選択す るのか、何がより良い方向だと判断するのか。これこそはまさに倫理の領域の問 題なのである。
(了) (1999/6)

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