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「鈴木正文さんのお話を聞いて
〜気づいて! 歪んだクルマ社会」

弥生宗乙

■「移動の自由」に轢き殺される人々
■クルマ社会というシステム
■科学技術の麻薬性
■クルマ社会にはやく気づいて!


 先日ある集会(*1 )で、自動車雑誌「NAVI」の編集長である鈴木正文氏のお話を聞く機会 があった。
 鈴木氏は反戦運動家、エッセイストとしても知られ、一九九一年の湾岸戦争 においては、「反戦派モータリスト」としてユニークなマニアカー(?)デモを 企画された方。NHKテレビの「クローズアップ現代」で、美しい国谷裕子キャ スターと一緒に出演されることもあるし、また、ついでに言えば、矢作俊彦の小 説「スズキさんの休息と遍歴」のモデルでもあられる。
 ぼくの立場から言えば、良識的自動車擁護派文化人、という位置づけになる だろうか。
 さて、そのお話の中身だが。
 まず、自動車文化の拡大、発展の歴史を概観された鈴木氏は、クルマ文明が 発達した背景のひとつとして、「移動のためのツール」である自動車には「ある 種の文化的な力があった」、というのは、人間が自由に移動するということは「 人間的自由の根本に関わる」問題だからだと説明される。だから、もはや我々は 自動車を手放すことはできないのだというのである。
 しかし、一方において、自動車が環境を破壊する手段を用いているというこ とも認め、この問題をどう解決していくかという検討に入っていく。
 鈴木氏は、主に自動車に起因するCO2増加の問題に触れ、だからといって 、「移動の自由を制限する」方向に向かうべきではない。では、どうするかとい えば、テクノロジーによって問題の解決を図るしかないとおっしゃる。
 また、この場合、3リッターカーや、代替エネルギーの開発状況に触れ、こ うした改良は個人のレベルでは手に負えず、現状においては、自動車メーカー、 とりわけ大企業のテクノロジーに依存するしか、問題の解決の方法はないとのこ とであった。
 ただ、コストの面から、今後予想される中国をはじめとした第三世界のモー タリゼーションへの対処は、悲観的であるともお考えのようだった。(これは、 環境破壊が人間の生存許容限界を超えてしまっても仕方がないという意味なのか 、それとも、中国などでの自動車使用は規制すべきということなのか、ちょっと わかりづらいところではあるが。)
 さらに、では、個人レベルではどうしたらよいのか。できることが「ほとん どないということに気づいて愕然とする」と告白されたとおり、走るとき以外は エンジンを止める、排気量の少ないクルマに替える位のことしかできない、とい うことのようだ。
 むしろ、鈴木氏の問題意識は、大企業が支配する大量生産方式の中で「どれ だけぼくらの手の内に自動車を取り戻せるのか」という方に向かわれるようで、 量産部品以外を手作りする町工場的な自動車工房の可能性について語っておられ たのが、新鮮だった。
 また、思想史的、精神史的な視点からは、これまでのようにスピードを追い 求めるという、人々の感覚の転換を求め、それに変わる満足を見つけていく必要 があるという趣旨の御提起であった。
 なにしろ、三十分しか時間をお持ちでなく、「二十世紀文明は自動車が作っ てきた文明」であるという視点から、都市と農村の対立、ライフスタイル、都市 問題など多岐にわたって見解をお持ちのようだったが、十分展開したお話がうか がえず、この点、大変残念だった。
 ぼくには「自動車がそこで排除されるような形でだけ将来を構想するという ようなことを考えたときに、ぼくはそれはあんまり良くないことじゃないかとい う―社会イメージとしてそういうイメージを持っています。」という御発言が、 鈴木氏のスタンスを表現されるお言葉として、大変象徴的であると思われる。

■「移動の自由」に轢き殺される人々

 さて、この中で、いくつか感じたことがあったので、以下に少々述べさせて いただきたい。
 まず、自由な移動が、人間の本源的自由であり、そうであるが故に、これを 人間から取り上げることはできないのだというお話について。
 そのこと自体はわかるにしても、しかし、だから、自動車でなければならな いというところには、少々疑問が残るところだ。
 確かに、一度、エンジン自動車という、極めて強力な地上水平移動能力を味 わってしまった以上、人がその魅力にとりつかれてしまったということはあるだ ろう。しかし、同時に、それが何らかの意味で、有害なものであれば、それを規 制するということも必要ではないだろうか。
 例えば、食欲という、人間の根元的な欲求がある。これを満たすことは、最 優先に認められるべき「自由」でもあろう。しかし、だから、何を食べてもいい のだということにはならない。具体的な例としては異論があるかもしれないが、 希少な動物を獲ること(鯨とか)、また極端に言えば、生きた人間を殺して食べ ることなど、やはり一般的には、認められるべきではないだろう。
 そういった場合、他に公共交通などの代替手段を確保し得るならば、自動車 の使用を規制、禁止するということは、必ずしも、人間の自由を侵すことにはな らないのではないだろうか。
 さらに言えば、現状において、クルマに乗る自由は、大変、差別的、特権的 自由であるということも、忘れてはならない。
 「自由な移動」が人間の本質的自由というなら、むしろ自動車は、そうした 自由を初めから制約されている人々に対してこそ、有効に活用されるべきである 。しかし、実際には、移動能力の劣る人々、すなわち、子供や老人、障害者は、 自動車を所有し、それを操縦して使いこなすという「自由」から、もっとも遠い ところにおかれていると言わざるを得ない。( *2
 いや、それどころか、子供や老人、障害者は、交通弱者として位置づけられ 、現実には、狭い裏道などで自動車の脅威にさらされ、ヘルメットをかぶり、壁 にへばりついて歩かなくてはならないというのが、実状なのである。誇張ではな く、道路を横切ると言う行為さえ、日々命がけなのだ。ぼくでも、場合によって は(大型コンテナが左折してくるときなど)、信号の付いた交差点で横断歩道を 渡ることだって、怖いときがあるくらいだ。( *3

■クルマ社会というシステム

 ぼくは、日本の社会は、クルマ社会だと思うし、クルマ社会は歪んだ社会だ と思う。
 ここで、ぼくがクルマ社会というとき、それは単に自動車の量が多いとか、 普及率が高いことを指標にしているわけではない。自動車が社会構造の根底にあ って、社会生活そのものを支えている社会であることを問題にしているのだ。
 もちろん、同じように言えば、現代日本は、石油社会であり、電話、コンピ ューター社会である。いずれも、その一つが完全に機能しなくなったら、即日、 日本社会は活動を停止せざるを得なくなる。
 ではなぜ、その中で、とりわけ自動車が問題だと思うのか。それは、自動車 というシステムが、極度に不完全なシステムであるからに他ならない。
 石油の供給や、(ローカル)コンピューター・ネットワークは、良くも悪く も基本的には、大企業や、国家が管理している。その意味で、個人がいくら暴走 しようとも、それを止めることができるし、また次回からはそれを未然に防ぐ機 構を作ることができる。しかし、完全に個人主義的な機械である自動車の暴走を 止めることは、ほとんど不可能なことなのである。そもそも、現行の道路交通法 を守っているドライバーが、ほとんどいないということ自体、誰でもご存じのと おりだ。
 こうした、技術の拡散とそれに伴うコントロールの不能状態は、オウム真理 教事件でクローズアップされたような、化学兵器や細菌兵器(いわゆる貧者の核 兵器)のテクノロジー・ノウハウが拡散して野放しになってしまった事態を、ど ことなく思い起こさせるものがある。(もちろん、国家が管理していても、そん なもん、あってもらっては困るのだが。)
 こういうシステムを社会の根幹に据えている社会の未熟性を思わずにいられ ない。
 ところで、今、個人主義的機械という言葉を不用意に使ったが、実をいえば 、自動車が、真の意味で個人主義的な機械であれば、問題はもっと単純であるの かもしれない。それが個人主義であるなら、そもそも、前提的にそれを「使わな い」自由も確保されているはずだからである。しかし、その運用と管理、その結 果においては、個人が責任を負わなくてはならないシステムであるにもかかわら ず、クルマを「使わない」自由というのは、実際のところ、存在してはいないの だ。
 このことは、鈴木氏にも、あまり明確ではないようで、今回のお話では、自 動車という「移動のツール」を、もっぱら個人の移動の自由の確保の問題として 語っておられるような印象を受けた。
 では、自動車は現実にどのように使われているのか。
 幹線道路の脇に立って、流れていく(渋滞している?)クルマを眺めてみれ ば、それはすぐにわかる。
 そこに走っているのは、通勤を含めて、ほぼ、商・工・農業目的の、すなわ ち、経済活動のために使われているクルマである。どれくらいの人が、いやいや ながら、とまでは言わないまでも、仕事の関連で自動車に乗っているのだろうか 。はっきり言って、趣味で、クルマが好きでたまらなくて運転している人達だけ なら、自動車なんてそれほど害になるものではないのではないかとさえ思うほど である。(深夜に「ゾク」の子たちが騒音をあげるのには閉口するが。あと、砂 浜への乗り入れか。スピード違反は当然論外。)
 だから、この世界から自動車を全廃せよというようなカゲキな主張は、もち ろんナンセンスだが(やはり消防車とか乗り合いバス=公共交通などは必要なの だし)、しかしさりとて、必要のない自動車はなくそう、などと言ってみたとこ ろで、どのクルマも必要に迫られて走っているわけで、これまた全く意味がない のである。問題はその「必要」をいかに不必要に変えていくかというところにあ るのだ。
 ところで、ぼくは、趣味で自動車に乗るという行為を、一概に「不必要」と 見なす考え方には反対である。こうした領域でのクルマは、人間的豊かさにとっ て重要な面があると思うし、繰り返しになるが、純粋に自動車に乗ること自体を 趣味として走っているクルマの数だけなら、たかがしれてもいるのである。(も ちろん、くどいようだが、決められたルールを守ってもらうのは前提である。ま た、人車分離などの構造的改革も必要だと考える。)
 さて、そこで、なぜここまで過剰に、経済活動がクルマに頼るのかというこ とを見てみれば、そこに、現代社会の持つ、根底的な問題点が見えてくる。すな わち、結局この社会が競争原理、つまり弱肉強食の理屈で動いているという単純 な問題に行き着くのだ。
 結論から先に言ってしまえば、自動車はまさに資本主義的な性格を持つ道具 であり、本質的にいって競争のためのアイテムなのである。
 卑近な例だが、現在ぼくが勤めている職場(首都圏近郊のよくある町工場) を例に取ってみよう。
 毎日、十回前後、運送会社のトラックがやっくる。原材料の搬入と完成品の 出荷の為だ。最大手の宅配会社のトラックなど、一日に何回もまわってくる。会 社のワゴン車も時々ではあるが、近くの得意先に納品に行ったり、下請けへ搬入 、回収したり、工具類の買い出しに行ったりと、使われている。ほとんど家族経 営の会社にもかかわらず、本社や工場が各所に分散しているため、社長の移動も またクルマである。
 たまに来る得意先からのお客は、たいてい、電車とバスでやってくるので、 この場合は、帰りはクルマで送ることになる。
 滅多にはないが、たまにやってくる売り込み営業マンもクルマで来る。機動 性と、商品サンプルやパンフレットのたぐいは手で持ち運べないという事情から だ。
 いかに現代日本が、ネットワーク社会などともてはやされようと、現実の経 済活動では、多くの場面で実際にヒトとモノとが頻繁に動き、そのために自動車 が必要とされている。しかも、その度合いはどんどん高まっているのである。
 例えば、今、製造業界で大企業が率先して採用している戦略は、トヨタの「 看板方式」が代表するように、自社にはなるべく在庫をおかず、必要なときに、 下請けから即座に納入させるという「スリム」化戦略である。このことは当然、 孫受け、曾孫受けと、日本の製造業全体に過酷な短納期を強要することになる。 結果として、一日単位、いや、それどころか、毎時間単位で、小口の宅配便が、 生産現場と元請けの間を、何度も走ると言うことになるのだ。
 もはや、スピードと小回りの利かない企業は存続を許されない。そしてこれ は企業の規模を問わないのである。
 もちろん、こうした傾向は、何も製造業に限ったものではない。どの分野に おいてもヒトとモノをすばやく移動させることこそが、競争に打ち勝つ絶対条件 であるということは、多くの方が思い当たるところであろう。
 こうして一度できあがった、自動車を利用した小口(少人数)の輸送(移動 )システムが、常に市場を拡大しようとする企業の意志によって、一般消費市場 にまで需要が拡大されていくことは、もはや、押しとどめようがない。
 繰り返すが、経済構造が自由主義という競争原理のみで成り立っている以上 、競争に勝つことは絶対的な課題であって、そのために、スピードと柔軟性が必 要とされている。こうした傾向は外部からの規制がなければ、決して、とどまっ たり、逆転したりすることはない。
 鉄道と列車などによる一律的(=同じスピードの)大量の輸送・移動システ ムに頼っていては、競争相手との差異を作り出すことができない。これに対して 、自己投資に見合った性能を選択でき、個人的運転技能によって、他者より優位 に立ちうる自動車というシステムは、まさに資本主義の競争社会のためにこそ生 まれてきたといってもよいような生産手段なのである。
(もちろんこうした言い方は、多分にレトリックを含んでいる。実は資本主義 社会の要請する方向に向かって、自動車が進化してきたというのが、真相なので はある。)
 このようにクルマ社会が発展する現状では、しだいに、公共交通は消滅して いく。クルマ優先に整備された道路と法制の下、生産活動のみならず、消費生活 の場面に於いても、(郊外型大型店舗など)クルマ利用型のスタイルが主流にな っていき、結果、非クルマ使用者は社会のあらゆる場面から閉め出され(=競争 から脱落し)ていく。それがいやなら無理をしてでもクルマに乗れと言うことな のだ。
 クルマ社会は、実に「スッキリ」とした弱肉強食、淘汰の社会であり、また 画一的なライフスタイルを強制する社会なのである。

■科学技術の麻薬性

 こうしたクルマ社会の成立を、文化史的側面から見てみるとどういうことが いえるのか。
 そこには「科学技術」というものが内包する、いわば麻薬的性質というもの が見て取れる気がする。
 言うまでもなく、技術というのは、蓄積によって成り立っている。先行する 技術の積み重ねという土台の上にのみ、次の新しい技術が成立し得るのである。
 そのため、例えば移動用機械の分野においては、一度、エンジン搭載型の地 上走行車が発明され、実用化されれば、技術はそれをどんどん発展拡大していく 方向を取っていく。
 もちろん、それとパラレルにいくつかの方式の技術も発達するし(船舶、航 空機、鉄道)、おそらく、基礎研究分野においては、ぼくなどの想像もつかない ような様々な方式が考えられているのだろう(映画「スターウォーズ」のATA Tウォーカーのようなものとか)。
 しかし、技術の経済性(開発コスト、時間、その他様々な手間暇)を考えた 場合、相当にその経済性(便利さ)を逆転する可能性が見いだされない限り、既 存の技術こそが、もっとも安価にして先進的な技術として、ますます、発達する と言うことにしかなり得ない。こうした技術は、一度主流的技術になると、それ 以外の方式を駆逐し、このため人は往々にして、他の可能性はあたかも存在しな いような錯覚というか、思想的呪縛を受けることにもなるのである。これが、い わゆるパラダイムというやつだ。
 もちろん、これは何も、自動車技術に限ったことではない。あらゆる技術シ ーンがこうした不可逆的性質を持っているのである。
 例えば、一度始まった原子力発電は、とにかく、その方向でがむしゃらに進 んでいき、その結果、現代の我々は、原子力による電気を利用しなければ、実際 上、生きていくことはできなくなっている。原子炉を止めることはできない、と いうことになってしまったのだ。
 また、昨今、臓器移植が問題になっているが、医療技術の世界で移植術が主 流的方向に選ばれたからこそ、その技術が深化してきたのである。もしも、万一 、何かしらの別の要因(例えば強力な宗教的影響とか)が存在していたら、「臓 器移植」という技術は初めから研究の対象外になっていたかもしれず、その分、 別の医療技術が進歩していただろうと想像することは難しくない。しかし現状、 このように臓器移植技術が最先端技術として進歩してきた以上、「それ以外の方 法」は実際上ないのだし、反対する人々にとってさえ「しかたのない」ことにな っているのである。
 前節で展開したクルマ社会の発展過程を、技術史的側面から言い換えるなら ば、次のようになるだろう。ひとたび自動車という技術が選択されると、それに 対応して道路や法律が整備される。そのために、またクルマが増え、関連産業が 巨大化する。自動車メーカーはさらに普及を促すために、技術改良と、イメージ 操作を繰り返す。自動車自体の機能性と、道路建築技術やナビゲーション技術な どが進化していく。その結果、一段とクルマにとって「快適」な環境ができてい き、クルマはますます便利になり、どんどん増えていく。もはや、人間はクルマ を手放すことができない状況に追い込まれるのだ。
 こうした「科学技術」の性質は、どことなく麻薬中毒に似てはいないだろう か。
 初めはちょっと気持ちがよいと思って使っているうちに、だんだん深みには まり手放せなくなる。やがて、身体と心がぼろぼろになっていく……。ぼくには そんなイメージがして仕方がない。それが、酒やタバコ程度であれば、まだ、か わいげがあるわけだが。
 誤解を恐れず、あえて言えば、クルマ社会の最大の被害者は、ドライバー自 身である。今日の、極めて高い免許取得率と自家用車普及率を見れば、それは、 日本社会の圧倒的多数の民衆のことでもある。
 ぼくたちはクルマ社会を快適だと思わされているのではないだろうか。わけ のわからないうちに過激な競争社会に投げ出され、それに勝つことが楽しいのだ と、思わされてはいないだろうか。自動車という、走る凶器にして、走るカンオ ケの中を心地よい空間だと思わされているのではないだろうか。
 交通事件の加害者には、本人、周囲とも、えてして、加害意識が薄いという 。保険に入っていれば、(もとより、それは当然のことだが)金銭的負担も比較 的軽くてすむ。(全然負担がないこともあるらしい。)
 そもそも、交通関係の業務上過失致死事件(酒を飲んで人を轢いて、そのま ま止まらずに逃走しても、これに入るのだが)の起訴率は約二十パーセントしか ないという。この事実が、そのことを象徴していよう。たとえ人を殺しても、「 交通戦争」という「聖戦」の結果であって、運転者に「罪はない」のである。
 もちろん、被害者が被害者であるのは当然のことであるが、加害意識を持て ない加害者(殺人者)として、人間性を喪失させられてしまっているドライバー も、また、クルマ社会の被害者なのではないかという気がしてならない。

■クルマ社会にはやく気づいて!

 一度、作り上げられた体制を転換するためには、今度は、大変なエネルギー が必要である。
 クルマ社会からの脱却は、まずもって、我々自身の価値観を転換しなければ ならないと同時に、本質的には、企業が、私的利益を自由競争を通じて追求する というイデオロギーから脱却しない限り、無理なことなのである。
 だから、そういう観点に立てば、自動車問題の解決は、大企業のテクノロジ ーの進化に期待するのではなく、企業のあり方を批判追求し変えさせていくこと によってしか、実現し得ないのである。(それは、もちろん、自動車関連産業の みならず、全ての企業と社会の問題として考えるべき問題だが。)
 そもそも、高速道路でさえ、現行最高時速が百キロとされているのに、なぜ 自動車メーカーが市販するクルマは百八十キロも出るようになっているのか。道 路以外の場所を走る機能を強調したRV車が、なぜ作られ続けるのか。
 誤解しないでいただきたいが、ぼくは何も、たんに法律を守れと言いたいの ではない。ただでさえ、人間(そして、環境)に対して圧倒的な破壊力を持つク ルマを、安全性を確保するシステムが全く無い中で、さらに危険な製品にしなが ら作り続ける企業の論理を問題にしているのだ。(破壊力は運動エネルギーの二 乗に比例して強まるという点に注目。)
 自動車メーカーが、売り上げを伸ばすために作り出している様々な機能(必 要以上の高速、オフロード走行、テレビや対面シートをつけるなどの車室の住宅 化)を、無批判に受け入れて、それを駆使することが自由なのだと錯覚するので は、あまりにも情けない。
 そうでなかったとしても、自動車による移動が、自由な移動なのだと考える こと自体が、思いこみに過ぎないということにも気づかなくてはならない。実際 には行政が建設する自動車用道路(専用道路のことを指しているのではない。現 在の舗装道路は全てクルマのためのものなのだ)が無ければ、クルマはどこにも 行けないというのが事実なのである。(だからって、道のないところを走るとい うのでは、それこそ「無軌道」というものだが。)
 自動車交通が、移動・運搬システムとして、本当に良いものなのかどうかを 冷静に検討し、また、このクルマ社会のあり方を真摯にみつめることこそが、本 当の意味での自由と豊かさを獲得する道なのではないかと、ぼくは考える。
 今日、自動車とクルマ社会がもたらす弊害は、加速度的な勢いで広がってい る。地球温暖化など地球規模での環境問題、化石燃料の資源問題、地域的な大気 汚染・健康被害の問題、RV車などの乗り入れによる生態系破壊の問題、交通事 故による死傷者の拡大や、ローカル鉄道の廃止に伴う非クルマ使用者の地域的孤 立を初めとした、いわゆる交通弱者への虐待・差別の問題等々。
 グローバルからローカル、マクロからミクロまで、問題は抱えきれないほど ある。しかし、もっとも問題なのは、クルマ社会のもたらす深刻な(本当に深刻 な)影響に無自覚な人々が、あまりにも多いと言うことなのではなかろうか。否 、それ以前にこの社会が歪んだ社会であるということすら思い至らない人達が圧 倒的多数なのだ。
 いわゆる「左翼」的な人達の間で、「交通規制する国家権力」との対決には 闘志を燃やしても、非人間的なクルマ社会を根底から変革しようとする気持ちが 乏しいとすれば、全く残念なことだとしか言いようがない。( *4
    (やよい・むねお 労働者)

補 注

*1
「21世紀に向けた知のクロスオーバーを/7・27グラン・ワークショップ」 (1997年 於・曳舟文化センター 主催・実行委)
 なお、当日の鈴木氏の発言は、「SENKI」第914号(せんき社)に、 採録されている。

*2
 また、低所得者層にとっても、教習を受け、自動車を購入し、維持、管理す るコストが極めて高いことから、同様にクルマを利用することが困難である。し かしながら、こういう層からも徴収されている税金は、道路の整備を初めとして 、自動車がより使いやすくなるためのインフラ整備に使われてはいくのである。 自分のカネで、自分の生存権を脅かしているようなものか。

*3
 歩行者が交通法規を守っていたとしても、しばしば交通事故で殺されたり、 傷つけられたりしているという事実は、新聞種にもならない日常茶飯事である。 さらに、そもそも、圧倒的に破壊力の大きな自動車が、注意力の低い子供と同じ 場所を通行するという、現在の道路の建設思想そのものが問題でもある。
 こうした視点からのアプローチは、交通被害者遺族の団体や、「脱クルマ」 運動グループから、様々に行われている。

*4
 今次(1997年)の日本共産党の党大会に向けては、一部でクルマ社会問 題についての討議が行われたように見受けられる。ぼくは日共を支持しないが、 党派的な好悪を越えて素直に評価したい。


本文は一部を修正の上、「エム」第10号(編集・いまのまさし 1997/10/1 発行)より転載しました。


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