アニメ映画評 『憂鬱なリアリティ ―「もののけ姫」と「エヴァンゲリオン」』                いまのまさし  この夏(1997年)もアニメ映画が大ヒットした。ディズニー の新作は「ヘラクレス」(この映画、見る気もしなかったけど、昔、 マイティ・ハーキュリーっていうのがあったのを思い出した)、不 朽の名作「ジャングル大帝」の映画版(実はこれも見てなくて)、 そして、クレイ(粘土)・アニメの大傑作「ウォレスとグルミット、 危機一髪!」(これは、本当に傑作)などなど。  しかし、なんといっても、興業成績から言えば、宮崎駿監督の 『もののけ姫』がダントツの一番で、なんと歴代日本映画のナンバ ーワンになってしまったという。もっとも、この大ヒットは、ある 程度、初めからわかっていたことでもあり、むしろ今後、ディズニ ーの配給網を使った全世界公開の結果の方が興味深いというところ だろうか。  一方、マニアの間に「宇宙戦艦ヤマト」以来の歴史的大ブームを 引き起こした、庵野秀明監督のテレビアニメの完結編、『新世紀エ ヴァンゲリオン劇場版・Air/まごころを、君に』も、ついに劇場 公開された。こちらは、春の「不完全版」公開時に比べると、マス コミの反応は今ひとつであるが、いろいろな意味から、それも当然 ではあろうとは思う。  この二作が、日本アニメの二十世紀最後を飾る傑作になることは、 ほぼ間違いないだろう。(まあ、あと三年以上あるから、さらに 「最後の傑作」が生まれる可能性も、実は大いにあるけれど。)  それは、これらのアニメが、日本の一般実写映画が描ききれなか った、「今」をみごとにとらえているからに他ならない。また、セ ル・アニメという手法を通じて、映画以外のジャンルのあらゆる作 品と比較してみても、大衆、とりわけ若い世代にアピールし得た作 品なのでもある。  またそして、この二作は、その結論があまりにも遠く離れてしま った点でも、極めて興味深いのだ。 「もののけ姫」の「真面目」な限界  まず、宮崎の「もののけ姫」。この作品が、現代世界における最 高級のアニメーション映画あることは、とりあえず疑い得ない。フ ァンの期待に毎作応えられる監督というのは、そうはいないものだ。  この映画は、中世の日本を舞台にしたとされる、その実、無国籍 的な世界を背景に、人間化した獣や、シシ神と呼ばれる神的存在と、 これと闘う人間たちを描いた力作である。一般的には「自然」と 「人間」の共存の難しさを描いた作品として評価されているようだ。  さすがにここで、実写映画では表現し得ないものを描き出す、宮 崎のイマジネーションはすごい。神的、霊的なものの描写は、実写 で描くとなると大変な困難があろう。この点、アニメという手法を とったが故に、この作品は、広い層に理解できる形で、強いアピー ル力を持つ作品となったのである。  (ただ、こうした、「行間を読む」がごとき、きめの細かい「文 芸」作品が、アジアではともかく、欧米で受けるかどうかは、ちょ っと予測のつかないころではあるが。)  さて、ほとんどどこでも「絶賛」されているこの作品だが、ぼく には、非常に謎めいて見えるのである。なぜならば、どう見てもこ の映画は「風の谷のナウシカ」の、全くのリメイクとしか思えない からだ。  もちろん、見る人によって意見は分かれるだろうが、キャラクタ ーの設定、構成から、ストーリーまで、ほぼ「ナウシカ」が踏襲さ れている(*1)。なぜ、宮崎が「最後の作品」(*2)として、 この映画を作ったのか。そこのところが、よくわからないのだ。  基本的なテーマは、人間と自然との矛盾的共生ということで、こ の点、確かに「ナウシカ」よりも視点はやや厳しいとは言えるのだ が・・・・。  ところで少し考えてみると、本質的に言えば「自然」なるものと 人間が対立したり、共生したりするということはあり得ない。なぜ なら、「自然」とはあくまで、環境の状態を表す言葉でしかないの だから。だから、「人間対自然」という言葉は、自然環境の変更に 対して見解の違う人々の間の対立を意味するもの以外ではない。従 ってこの映画の本当のテーマも、実は人間同士の矛盾的共生という ことなのだというしかないのである。そこに90年代の世界的激変 が宮崎に与えた、思想的影響を見い出すこともできるかもしれない が。  正義や悪というものは、確かに存在する。しかし、当然のことな がら、それは、誰にも同じ価値観としてあるわけではない。人々は あることがらを絶対的な悪だと感じながらも、なお、隣人と共生す るためにはそれを許容しなければならない。イスラエルとパレスチ ナ、北アイルランドのプロテスタントとカソリック、ユーゴやアフ ガンの各勢力、右翼と左翼、我々をとりまくオウム真理教、ホラー、 教育、官僚。かくのごとく、全てのものが矛盾しながらも微妙なバ ランスをとって共存しあう他ないということを、積極的に容認しな ければならないのが、現代という世界なのだ。そこが「もののけ姫」 のリアリティではある。  しかしながら、それはそうだとしても、それは「ナウシカ」にお いてすでに語られたことではなかったのか。「ナウシカ」は自然が 人間を許した話、「もののけ姫」は、対立が残ったままの話だと解 説する批評家もいるが、そんなことはない。  「ナウシカ」のラストで、自然を含めてあらゆるものを力で支配 しようとするクシャナの軍勢が考え方を変えたとは思えないし、一 方、「もののけ姫」でも、生命そのものたるシシ神は、森を緑に変 えて、結果的に人間を癒やしているのである。  やはり、宮崎アニメは宮崎アニメなのだ。そこに描かれるのは、 結局、こうあって欲しいという理想主義なのである。彼にはどうし ても、人間と自然が対立しながらも共生できるという結末以外は描 けないのだ。  しかも、もう一つ特徴的なことは、その作品の中で生き抜いてい るのが、皆、明確な目的を持ち自立した「強い人々」だということ である。  この点、同じように極めて現代的なテーマを扱っている、庵野秀 明の「エヴァンゲリオン」が、自分の内面に深く入り込んでいけば いくほど、自分自身というものの存在理由を失っていく「弱い人」 の物語であるのに対して、正反対の極に存在していると言える。 「もののけ姫」に登場する人々は、誰一人自分自身を疑わない。し かも、そうした堅い自分の価値観を持ちながら、現実には自分の価 値観と相容れない存在達と共存することを受け入れる(もしくは、 そうせざるを得ない)のである。  行為としての対立、抗争、妥協、受容、共生のプロセスを繰り返 すことによって、矛盾的な現代世界を生きぬくべしという宮崎の 「健康的」な視点は、やっぱり、その弟子の庵野よりもスケールが 大きいと言わざるを得ない。  しかし、少し落ち着いて見てみれば、本当のところ、現代の日本 にこうした「強い」人々が、そう多くいるわけではないことにも気 づく。この映画の人物はやはり宮崎の理想の人間像が投影されたも のなのである。  残念ながら、ここのところに、宮崎の限界もまた存在する。今や 現実の世界では、矛盾は修復不能なほどの矛盾として、我々の前に 立ちはだかっている。人々は、それに叩きのめされ、苦しんでいる。 共生するという余裕さえ失ってしまっている。人々はあまりにも弱 い。  こうした人間主体の側の根本的危機状況に対して、宮崎の問題提 起はどこまで有効足り得るのだろうか。  宮崎自身がこうした問題へのひとつの答えとして作った作品が、 十数年前の作品のリメイクでしかなかったということが、誠に象徴 的である。  「もののけ姫」のまじめな姿勢は理解できるものの、ぼくには、 なんとなく、壮大にして、華麗な「良心的アニメ」の残骸を見るよ うな気もしてしまうのである。 「エヴァンゲリオン」成立の事情  さて一方の『THE END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン 劇場版・Air/まごころを、君に』だが、とにかく、すさまじい映 画ではあるのだと思う。  恥ずかしいが、正直に言って衝撃を受けた。見終わったときには 思考が停止した。その余りにも荒涼としたエンディングによって、 劇場全体が包み込まれた異様とも言える雰囲気は、少なくともぼく がはじめて経験するものだった。  しかし、この映画にはまず多くの説明が必要だ。そこからはじめ なくてはならない。  この映画は、そもそも、単独の映画として製作されたものではな い。大ヒットしたテレビアニメの完結編なのである。そのために、 テレビシリーズを見ていないと、この映画だけでは理解しづらいと いう問題がある。  しかも、このテレビシリーズが、また実に難解なのだ。放送され た時間帯は平日の夕方で、子供枠だったが、明らかに内容は大人向 けだった。(ぼくの場合は、偶然、ほぼリアルタイムで見ることに なったのだが。)  無理を承知で内容を紹介すれば、物語は近未来SFである。セカ ンドインパクトと呼ばれる世界規模での大災害の後、生き残った人 類に、「使徒」とよばれる謎の物体が攻撃を仕掛けてくる。どうや ら生命体のようだが、正体も意図も不明。これに対抗すべく、ネル フという国際的秘密特務機関が開発していたのが、大型有機ロボッ ト「エヴァ」シリーズである(むしろ人造人間といった方が近いか もしれないが)。  操縦は人間が直接内部に乗り込んで、エヴァと脳波をシンクロさ せて行う。ただし、なぜか、パイロット適格者は、セカンドインパ クト直後に生まれた、十四歳の少年少女だけだ。  主人公シンジは、その父で、ネルフの最高責任者ゲンドウに強制 されてエヴァに乗り、「使徒」と闘うことになる。  他の主なパイロットは、二人の少女、あらゆる経歴が謎に包まれ たレイと、勝ち気で攻撃的な性格だが、実は傷つきやすい心をかた くなに守っているアスカ。そこにセカンドインパクトのトラウマを 負った、若き女性作戦部長のミサトが絡んで、物語の横軸を形成し ている。  さらにネルフを陰であやつる秘密結社ゼーレという組織があって、 「人類補完計画」と呼ばれる怪しげなプロジェクトを、秘密裏に推 進しているらしい。  また、レイ、そしてエヴァそのものが、死んだはずのシンジの母 の、全部もしくは一部のクローンではないかという示唆も出てきて、 全ては答えのない謎の迷宮の中で、断片的なほのめかしの連続によ ってストーリーが展開するのである。  放映当時から、ファンの間で、これらの謎については、様々な憶 測が乱れ飛んでいたようだが、それ以上にこの作品がインパクトを 持ったのは、主人公シンジの性格によるものと言って良い。  シンジは極端に内向的な少年として描かれている。  彼はいつもオドオドとして、周囲の目を気にし、自分が闘う積極 的な理由を全く見いだせないまま、ただ、言われるままにエヴァに 乗り込むのだ。父や周囲の人に誉められるのがうれしいからと。  そして、それに耐えきれなくなると、落ち込んだり泣きわめいた り、逃げ出したりを繰り返す。女性キャラクター達が、皆それぞれ に非常な強さを持っているのに対し、きわめて対照的な人物として、 設定されているのだ。  一口で言えば、これは病的な対人恐怖の物語なのである。  この物語の中で、シンジは何度も自分に対する絶対的理解を求め 続けては、それを得られないことで絶望する。まるで母を求める赤 ん坊のように。  ところで先ほどこの映画をテレビ版の完結編と紹介したが、実は ここにも多少の事情がある。テレビ版はテレビ版で、すでにそれ自 体で、完結してしまっているのだ。つまり、「エヴァンゲリオン」 には、現在、結末が二種類存在しているのである。  それで、このテレビ版の結末が問題である。この作品は、テレビ シリーズのこの最終回があったからこそ、特別な作品になったと言 っても過言ではない。  テレビ版の第24回放映分(第弐拾四話)において、シンジは最 後の「使徒」を倒す。続く第弐拾伍話ではいよいよゲンドウが「人 類補完計画」を発動したらしいのだが・・・・。  人類には大きな欠陥があって、それが人類の種としての限界を作 っている。それは何かといえば、人間がそれぞれに、バラバラの心 を持っていると言うことだ。そこに疑心が生まれ、孤独が生じる。 そのために人類は新しい発展が出来ないのだ。この、人々の間にあ る心の壁を全て取り除き、人類全体をただ一個の生命体とすること によって、種の脱皮を計ろうというのが、「人類補完計画」であっ たのだ。  当然ながら(?)というか、人類補完計画が発動した途端、物語 の外壁は崩壊する。  登場人物達の心の中に、すでに死んだはずの者を含めて、全ての 人々の心が流入してくる。  テレビシリーズの第弐拾伍話と、第26回放送の最終話は、その ほとんどが、他者の心が侵入してきたキャラクター達の心の内側の 描写で終始することになった。とりわけ、最終話は、シンジの心象 風景だけに当てられている。  なにしろ、このテレビ版では、「使徒」と「人類補完計画」との 関係さえ、全く明らかにされない。わずかに、レイが重要な役割を 持っていると言うことが、示唆されているだけである。  さらに、断片的に挿入されるカットでは、「外側の世界」で、ミ サトをはじめ「人類補完計画」に最後まで抵抗した人物達が惨殺さ れているように見えるのだが、その説明も全くない。  この最終二話では、もはやほとんど動く画もなく、ただ、暗い体 育館か取調室のようなところに、ひとり椅子に座らせられたシンジ が、他の登場人物達から、ひたすら詰問され、非難され、罵倒され て、自らの心の弱さ、貧しさ、醜さを暴かれていくのである。  人が隠しておきたい、恥ずかしいこと、弱い部分を容赦なく、侵 入してきた他者の心が、追求するのだ。  そして、最終回のラストに至って、ついにシンジは、自分が何の 前提も必要なく、「ここにいていいんだ」ということに、気がつく。 この作品の主要な登場人物が、シンジを囲んで祝福する中で、シン ジは両親への感謝の心を感じて物語は終わる。  はたして、この結末には、多くのファンがとまどい、驚き、怒っ たのである。それはあまりにも、従来のテレビ・アニメのセオリー を逸脱していた。  今、語られているところによれば、この最終話の頃には、監督も スタッフも時間的、精神的に追いつめられていたようで、ある意味 では技術的問題で(要するにまともなアニメを作る余裕がなかった) 、こうした結末になったらしいのだが、とにかく、テレビ終了後に 寄せられた多くの批判と、何よりも、絶大な支持を背景に、作り直 されたのが、今回の映画版なのである。  ところで、(オウム真理教のことは知らないが、)ぼくには、こ の最終二話は、かつて聞いたことのある、統一教会のマインド・コ ントロールを思い起こさせる。徹底的に心を痛めつけておいて、最 後に「お父様」のみが救ってくれるという教えを植え付けるという あれだ。  ファンの中でも、比較的若い人達は、素直にこの最終話の結論を 受け入れ、「救われ」てしまったらしい。一方、30歳を越す人々 の中にはこのラストを逆説と受け止め、アン・ハッピーエンドと、 解釈する人が多かったという。  確かにシンジは本来父という横暴から決別し自立しなければなら ないのに、最後の最後に父の計画の中に取り込まれ、安息を得て 「お父さんありがとう」となってしまったわけで、映画版を見る限 り、解釈としてはアン・ハッピーエンド説でよいようだ。しかし、 もっとよく見てみれば、そこに監督庵野のかなり屈折した感情も反 映しているように思われる。興味深いところだが、本稿ではこれ以 上言及する余裕はない。  さて、それで、映画では何が変わったのか。(*3)  映画版の展開では「人類補完計画」をめぐって、ゲンドウとゼー レの対立が表面化し、ついに凄惨な戦闘となり、結果的には、ゼー レの「人類補完計画」が発動する。  それは、シンジの乗り込んだエヴァと、「アダム」と呼ばれてい た「使徒」(*4)の体を使って巨大化したレイとの、結合として 実現する。あたかも、人類と「使徒」との交合のイメージである。  その時、地上の人間達の前には、自分がもっとも愛する者の幻影 が現れ、その幻影と抱擁した瞬間、人は次々はじけて消滅してしま う。  こうして、全人類が消滅していく中、シンジの心とレイの心は、 異次元的空間の中で、語り合い続ける。  この場面は、ほぼテレビ版の最終二話に当たる部分と言って良い。  最後に母であり、また、「もう一つの人類の可能性」であった 「使徒」でもあるレイは、人類の代表者となったシンジに優しく問 いかける。  人類は、心の壁を取り払って、一つになるべきか、それとも、個 人個人であった方がいいかと。  シンジはさわやかに答える。やはり人は個人個人であった方がい い。そうでなければ、シンジ自身も消滅してしまうから。  そこで、人類の方向は決定され、シンジは地上に戻される。  全てのものが崩壊しつくしてしまった地上。浜辺にシンジとアス カの二人だけが打ち上げられている。エヴァという母の胎内で守ら れた二人のみが生き残ったのだ。  しかし、次のシーンでは、シンジはアスカの上に馬乗りになり、 その首を絞めようとしている。シンジを決して認めようとしない、 「他者」たるアスカの首を。  そうしながら、シンジは、途方に暮れて号泣する。  その姿を下から無表情に見上げるアスカは、一言つぶやく。「気 持ち悪い。」  ここで、全く突然、フィルムが切れてしまったかのように映画は 終わる。エンドマークも、クレジットもない。  全く救いようのない、絶望的な幕切れなのだ。  いかに優等生的な答えを出そうと、やはり、現実の世界は、絶望 的でしかないという、あらゆる幻想を拒否する庵野のメッセージで ある。  永続する思春期  ところで、この物語の主人公が14歳に設定されており、そして、 同じ年代の少年たちが、このキャラクターに、引きつけられるとい うだけであれば、それは実は、不自然なことではない。すなわち、 シンジは思春期なのである。  子供から大人に変わる階梯で、人はそれまでの自己完結的な世界 から、社会における自分の位置をみきわめて足場を作るようになる。  その過程では、夢と現実、欲望と規制、自分と世界のパースペク ティブが、様々に変形し、不断に心が揺れ動き、自己卑下と尊大、 絶望と希望の間を行ったり来たりするものだ。  この作品の中でのシンジも、何度も自分は無価値なのだと告白す るが、そこには、自分という存在をつかまえそこねている少年の心 を見ることができる。  私という存在そのものには価値がないが、その自分がエヴァに乗 って闘うという行為には価値がある。だから、彼は他者に自分を認 めてもらうために闘い続けるわけだが、そこには自己の分裂状態が あるといえよう。  本来、「私なるもの」がそれとして存在しているわけではない。 だから、行動こそが「その人」なのだと言えるわけだが、シンジは 自分の行動と「本当のぼく」とを常に分離し続け、「本当のぼく」 はダメな人間なのだと結論づけるのである。やるべきことをやって いても、幻影の「本当のぼく」に押しつぶされ、不安を感じ続ける のだ。  こうした傾向は未成熟な思春期においてみられがちな葛藤である と言えるわけだが、問題になってくるのは、こうしたシンジの気持 ちに共鳴した人々が、実はもっと上の年代の層であったということ である。  実にここのところが、「エヴァンゲリオン」現象を社会問題とま で言わせるポイントなのだと思う。  では「エヴァンゲリオン」に共鳴してしまったのはどういう層で あったのか。言うまでもなく、それは「オタク」と呼ばれる人達で あった。  そして、庵野自身の発言などから察するに、まさにそうした層に 対して、すなわち、自分自身を含めた「オタク」達に対して、意識 的に発せられたメッセージが、「エヴァンゲリオン」だったと言え るのである。  庵野によれば、シンジは彼自身の分身であり、この作品は極めて 私的な作品だという。これは、彼と彼の世代の自画像であり、14 歳の少年のまま成長を止めた「大人」の告白なのである。  「オタク」という、思春期を脱しきれないままに来てしまった、 未成熟な大人。はたして、それは、何故生まれてきたのか。  ここで、かすかに見えてくるのは、いわゆる「昭和30年代世代」 、もしくは60年代生まれという層の存在である。(ちなみに、ぼ くは1959年の生まれであり、庵野監督は一つ年下ということに なる。)  世代というのは、もちろん、ただ年齢が同じであると言うことで はない。そこに、ある共通した文化的基盤が存在することを指して 言うのだ。では、「オタク」が生まれてきた世代とはどういう世代 であったのか。そこには、どういう特徴を見て取ることができるの か。(*5)  まさに、ぼく自身がそのただ中にあるこの世代は、おそらく、そ の前の世代との間に、極めて大きな断層がある。それは、ひとつの 文化的転換点であったと、ぼくには思えるのである。  かつて、少なくとも幕末から明治期を経て、戦後に至るまで、時 代にはその時代のアイデンティティがあった。そして、それは、言 い換えるなら、その時々の若者の、ジェネレーション・アイデンテ ィティとでもいうべきものであったろうと推察される。  幕末なら「尊皇攘夷」、明治なら「富国強兵」「自由民権」、大 正「デモクラシー」、ある時には「鬼畜米英」というのもあったろ う。  戦後では、それは「民主主義」であったり、「反戦平和」であっ た。  そうしたジェネレーション・アイデンティティは、それに組みす るか、反対するかにかかわらず、その時代の若者の精神世界に強烈 な「理念」を植え付けたと考えられる。  1960年代に思春期を過ごした青年達のジェネレーション・ア イデンティティは、「反安保」であった。いわゆる団塊の世代であ る。  彼らが巻き起こした学生反乱の季節に、一歩遅れて思春期を迎え たのが、今取り上げている「昭和30年代」乃至「60年代」世代 だ。そこでは何が起こったのか? 何も起こらなかったのである。    70年安保闘争の激烈な爆発に対して、国家=自民党政府は、こ れを全面的に圧殺した。大学は解体、移転され、「過激派キャンペ ーン」という新たなレッドパージが進行した。  見方を変えて言えば、国家は全力をあげて、現行の国家に対する いかなるオルタナティブをも、完全に叩きつぶし、その芽をつみ取 ったと言って良い。  しかも、同じようにあらゆる反国家運動を封殺した戦時中には、 強烈な「国家意志」をファシズム体制を使って徹底的に国民に押し つけたのに対し、ポスト70年安保時代には、国家の側から強力に アピールする内容すら全くなく、かくして、時代は「理念」無き時 代へと急速に突入していくのだった。  ジェネレーション・アイデンティティを持たないジェネレーショ ン。その第一号となったのが、60年代生まれの人々なのである。 そして、彼らが「理念」の代わりに、世代の共通項として持てたの は、例えばテレビ・アニメ体験のようなものしかなかったのである。  話は唐突に変わるのだが、数年前に起こった一連のオウム真理教 事件を見て、感じたことがあった。違法行為をしたとして逮捕され ていく人々をよく見ると、指導的立場の人々は、たいてい40代か 20代で、30代の、とりわけ男性は、極端に言えば「使われてい た側」のケースが多かったということである。  例は不適切かもしれないが、ここのところに、ひとつの大きな意 味が隠されているようでならない。  つまり、「昭和30年代」世代には、なにか欠落している部分が ある、と思われてならないのだ。それは、この世代の精神文化が、 全くの不毛であったのではないかという疑惑でもある。「理念」を 持ち得なかった世代には、新しい価値観を作り出し、時代を切り開 いていく力が、決定的に不足していたのではないだろうか。  ぼくは、かねてより密かに(別に「密か」でなくても良いのだけ れど)、この世代を「失われた世代」と呼んできた。ぼくらは70 年安保闘争が鎮圧された後にやってきた「あらかじめ敗北した世代」 であり、故に「あらかじめ失われた世代」なのである。  社会における自分の位置を見極めることができるのが、大人であ り、思春期からの脱却であるとするなら、そのパースペクティブの 基準線となるべき社会的「理念」を持たない人間は、永遠に大人に なれない。思春期が永続していく他ないのである。  そしてまた、「理念」ではなく、商業的に提供されたテレビ・ア ニメしか共通の文化的基盤として持たない「世代」というのは、本 当の意味では「世代」とも呼べないのかもしれない。  この点について、偶然つけたテレビの中で、大変、示唆的なこと を言っていた人物がいる。(*6)先日、「萌の朱雀」でカンヌ映 画祭の賞を取った若手女性映画作家、河瀬直美である。  彼女は、三里塚・東峰部落の中で元小川プロ(*7)の福田克彦 にインタビューして、「ともに闘った人が離れていくのは自分の心 が裂かれていくようだった」という福田の言葉に対して、「私たち はそうは思わない。なぜなら、初めから(そういう関係が)無かっ たから」と告白した。河瀬はすでに現在の若い人々にとっては、世 代という感覚はもはや無いと言っているのである。 ポスト・モダンの時代  ただ、ぼくは公平に言うなら、この時代以降の、社会的「理念」 の喪失という事態は、ある世界史的必然をも持っていたということ も、また事実だと思っている。  そこには、二十世紀という時代の大きな思想的なうねりが、背景 としてあったいうことを、無視するわけにはいかないのである。つ まり、この世紀において、いよいよ人類の思想は、デカルトやベー コンの「近代主義」を脱しはじめたということだ。  ポスト・モダンの思想は、ぼくの理解するところ、ほぼ構造主義 的手法と同じ意味だと思う。こうした手法の源流として、ソシュー ルやレヴィ・ストロース、さらには、マルクスやフロイト、ニーチ ェを措定する人々もいるが、実際のところ、思想界の最前線はとも かく、一般大衆にポスト・モダン思想が広がってきたのは、第二次 大戦後、というよりは70年代以降のことではないかと思う。  思想は常に、不断に俗化しながら、社会に広く浸透していき、い つしか、人々の無意識的な常識、すなわち、(科学史の用語を転用 して言えば)時代のパラダイムとして、定着していくのである。 (*8)  自由主義や民主主義、ヒューマニズムなどといった思想は、資本 主義の経済体制とのセットで人の暮らしの中に入り込んでいき、い ちいちそれを唱えた思想家の名前など知らなくても、今や、人々の 常識的思想として定着している。  同じように、ポスト・モダン、もしくは構造主義は、戦後世界の 民族解放運動の高まりなどを背景としつつ、脱中心的思想、ネット ワーク的平等意識として、じわじわと人々の心の根底に浸みていっ たのである。  これはマスコミ的には、価値観の多様化という呼び方で、一般化 していったと言える。  こうした風潮が一般化する中で、かつてのように、ある一つの、 または対立する二つの代表的理念というものは喪失していった。と りわけ、国際政治的には、ソ連の崩壊に代表される冷戦構造の終結、 民族の分離独立運動の高揚という事態の中に、こうした傾向が象徴 されている。  日本国内の動きから見ても、政治的には政治理念のない「多極化」 「分裂化」が進み、与党も野党も主張の違いがわからないという事 態に立ち至っているのは、どなたもご存じの通りだろう。  ただ、「脱中心」、多様な価値観を認めるという思想そのものは、 決して、「誤り」ではないわけで、それ自体は人類の思想史上の大 きな発展なのではある。  しかし、未だ、そうした思想性を、人類は的確にとらえることが できず、宗教対立などに顕著なように、極めて排他的な一元的価値 観も払拭されるどころか、かえって強まるという結果になっている のである。  こうした現代世界、もっと狭く言えば現代日本にあって、多元的 価値観が時代の「正の理念」として立ち現れるのが、本来健康なあ りかたなのであろうが、現実はおそらく、そうはなっていない。今 は、多元的価値観が、あらゆる理念を破壊しつくしているという、 「負」の側面ばかりが目に付く現状なのである。  そして、全ての理念が破壊しつくされた時に、唯一残る価値観は、 経済的論理、すなわち資本主義社会の競争原理だけだった。人は皆 勝利を争い、能力のあるものだけが、勝ち残っていく。そして勝者 こそが正義、大変わかりやすい価値観である。(もちろん、そこで は「カネ」をより多く集める能力こそが唯一の「能力」であり、 「カネ」をより多く持っている者が勝利者ということになるが。) (*9)  「エヴァンゲリオン」に立ち戻れば、シンジは自分の「価値」を 計る基準として、戦士としての「能力」以外には思いつかないし、 父ゲンドウを筆頭に、彼の周囲にいる大半の人々は、彼の「能力」 に期待する。シンジが苦悩する世界とはそのような世界として描か れているのである。  我々、「オタク」層を排出した「昭和30年代」生まれは、こう したポスト・モダンの第一世代だ、といえば聞こえがいいが、それ は同時に、社会に対する「特効薬」も「正答」もない時代の始まり だった。(もちろん、そんなものは、過去においても実在はしなか ったのだが、ついにその幻想さえも、失われたということである。)  繰り返し言うが、ポスト・モダンのパラダイム自体は正しい。し かし、この時代を背負わなければならない子供達は、不幸と言うし かない。しかもパラダイムというのは、これは違うと思ったからと 言って意識的に取り替えられるものではない。なぜなら、パラダイ ムというのは、前提なのではなく、あくまでも結果なのだから。  「エヴァンゲリオン」のヒロインの一人、14歳のクローン人間 レイ(零)は「エヴァ」に乗る理由をこう説明する。「あたしには 他に何もないもの」と。  もう一つ付け加えるならば、こうした時代の中で、なぜ人はかく も傷つきやすくなったのかということである。シンジは、まさにス ケープゴートとして、作品世界の中で、徹底的に傷ついていく。  そもそも、「傷つく」という言葉自体が、「心が傷つく」意味と してすぐ了解されるほど、人々の精神は脆弱になっている。  それは、簡単に言えば、「人類補完計画」とは逆の動きが、進行 してきたということに他ならない。  かつて、一つの社会の人々の精神世界には共通項がたくさんあっ た。先に触れた時代の「理念」はまさしくそういうものであったし、 もっとベーシックな部分で、社会の「常識」はとてもはっきりした ものだったろう。  当然、そういった「常識」は、硬直した「村の掟」のごときもの でもあったが故に、社会を堅固に維持すると同時に、新しい考え方、 個性的な考え方を持つ者にとっては「鎖」以外の何者でもなかった。  時代の流れとして、そうした古い「常識」が崩壊していった必然 は、先に見たとおりである。  しかし、また、その結果、人々には前提となる共通認識、共通世 界(それは共同幻想でもあったわけだが)が失われ、個々人は孤立 していったのである。それ以来、人々が交流するときには、まず前 提を作り上げるのに膨大な努力が必要になり、事実上そんなことは 不可能でさえあるのである。  ごく、卑近な例をあげれば、歌謡曲の世界で、ミリオンセラーの 質の変化ということがよく言われる。  かつて、シングルレコードのミリオンセラーというのは、滅多に 生まれなかった。そのかわり、そうした大ヒット曲は、大人から子 供まで口ずさむことができたのである。90年代の日本においては、 毎年いくつものミリオンセラーが生まれてはいるが、年代を超えて 知られている歌は皆無になった。誰もが、皆、自分の属するコミュ ニティだけに通用する文化しか持っていないのである。  このように、それぞれの人々の精神世界、価値観がその孤立性を 深めてくると、次第に、他者との差異が激しくなる。そうなれば、 他者の精神世界、価値観とふれあうということ自体が、大変なスト レスをともなってくるのは当然のことだ。  人々はこのようにして、傷つきやすく、「弱く」なってきたので ある。 犠牲の羊  「もののけ姫」は言うならば、父性の映画である。エボシという 気丈な女頭領が出てくるが、彼女は実に、この作品中でもっとも父 親的なキャラクターである。  一方、「エヴァンゲリオン」は権威主義的父性に耐えることがで きず、母親を求める物語である(*10)。しかしそれはまた、いく ら求めようともそんな母性は実在しないということを、冷酷に宣言 する物語でもある。  宮崎監督は苦悩の中からかすかに見える希望を結末にし、庵野監 督はかすかな希望のすぐ後に続いている、完璧な絶望を結末にした。  悲しいことではあるが、ぼくは、やはり、この世界が絶望的だと いうことを認めるところからしか始まらないと思う。誰もが、どう いう立場からも、なかなか認めたがらないことではあるが、やはり、 この世界はもう絶望的だということは、すでに、明らかなのである。  しかし、それでも人は生きていかなくてはならず、また、生きて いくだろう。  ところで、最近の末期医療の考え方では、治療不能な病気と、患 者が上手につきあっていくことが、重要視されている。  そんなこととアナロジーしても仕方ないが、ぼくは、現代世界と 個人の関係は、がんと患者の関係のようなものかもしれないと最近 は思うようになった。  どう考えても、すっきりとこの世界の問題が解決される見込みは ない。いやそれどころか、もはや手遅れかもしれない。しかし、そ れでも「ワタシ」が生きていくのであれば、少しでも生きやすいよ うに生きていく方策を考えねばなるまい。(*11)  「絶望」という項にどのような要素を掛けても足しても、「絶望」 に変わりがないのだとしても、やはり、自分にとっての最善の生き 方というものを、模索していくしかないのである。他に方法はない。  「エヴァンゲリオン」は、その登場人物が、先鋭的に、この現代 社会の矛盾と絶望を引き受けてくれるが故に、われわれを癒してく れるのである。彼らが生きている世界、彼らが抱えている問題は、 まったくストレートに、ぼくら自身の現実であるのだ。  作品上では、彼らは、永遠に絶望と滅びを繰り返す。それは、あ たかも、人類全体の原罪を背負って十字架に架かったキリストのよ うにも見える。                         (了) (Creative Synapse 1997.9.13版)  ・・・〈 補 注 〉・・・・・・ *1  登場人物の対比で見ると、ナウシカとアステルに対応するのは、 (微妙に役割が入れ替わっているが)アシタカとサン(=もののけ 姫)。クシャナとクロトワは、エボシ御前とゴンザ。故郷に老賢者 の老婆がいるというところも同じ。虫たちの主・大蟲に対する山神 の主のシシ神。ただし、ユパにあたる人物だけは、今回は役割が完 全にネガティブになって、ジコ坊として登場しているようだ。  ストーリーも、どちらも、高貴な出身の若い主人公が、外因的理 由で自ら故郷を離れ、自然界の王と対面する。クライマックスにお いて、主人公の意志とは違う勢力によって、自然界との全面対決に なり、主人公が自らの命を投げ出して、仲介に入るというもの。  ここまで似ていれば、他人が作れば盗作と言われても仕方がない だろう。  蛇足ながら、この世界像は、「エヴァンゲリオン」がフロイト的 であるのに対し、ユング的であると言える。 *2  宮崎は、エンタテイメントとしての映画はこの作品を最後にする という、いわば引退声明を出している。それだけ、全力をつくした という意味に取れるだろう。(でも、この作品が万一、世界的にも 売れちゃったら、どうするんだろ?) *3  作品論的な意味で、映画版で、特に特徴的であった点には、次の ようなことがある。  まず、「エヴァンゲリオン」という物語が根底にセクシャルな動 機をはらんでいるということが、より明確になったこと。しかも、 それは女性への恐怖心、セックスへの恐怖心と、エディプスコンプ レックスの複合として存在しているという点。  また、実験映画風に実写フィルムを挿入したりすることによって、 はっきりと、この映画のメッセージの対象が、いわゆる「オタク」 青年に向けられていることを明示した点。  こうした問題をここで論じたいところだが、実は、ぼく自身、ま だ理解し切れていない点が数多くあり、今回はそうした作品内的世 界にはこれ以上踏み込むことが出来ない。 *4  作品中に「アダム」といわれる「使徒」が二種類出てくる。この 両者の関係はひどく複雑で、映画版でレイが吸収される「アダム」 は、実は「アダム」ではない・・・・。それでもって、そもそも 「使徒」というのは・・・・。このあたりの説明は、とてもじゃな いが手に余るので、省略! *5  本当は、狭い意味での「オタク」(族)というのは、ぼくの年齢 よりやや若い世代を指すのだが、なんにせよマスコミが無責任につ けた呼び名なので、ここでも厳密な解釈はしていない。 *6  「未来潮流/映画監督・河瀬直美が問う”リアル”とは何か」            (1997・7・5 NHK教育テレビ)  テレビでも、いろいろと興味深い内容の番組が放送されているが、 録画でもしていない限り、なかなか正確な引用が難しい。ましてや、 この番組は偶然途中から見たもので、引用はそのときの記憶に頼っ たものであることを、お断りしておく。  なお、同じ番組の中で、河瀬は庵野とも対談しており、「シンジ の心を思って泣きました」という河瀬の言葉に、庵野が困惑した表 情を見せたというのも、テレビならではのニュアンスを伝えていて おもしろかった。庵野は他に、「エヴァンゲリオン」がこれだけ多 くの人に共感される事態は異常である、といった趣旨の発言もして いた。 *7  小川プロは、日本で、もっとも力量のあるドキュメンタリー映画 制作集団の一つだった。とりわけ、三里塚闘争を取材したシリーズ は、日本映画史上、屈指の名作といっても良い。 *8  元来科学史の用語を、社会学的にアナロジーするのは、無理があ るのではないかと思っているが、現在一般的に使われる言葉でもあ るので、ここではあえて使用する。 *9  (略) *10  ゲンドウのイメージは「ナウシカ」制作時の宮崎駿のものだとい われている。そう考えると皮肉な話だ。 *11  別に、「安易に」という意味ではない。                      (補注終わり)