***「秋の夜長の大企画」参加作品 ***

 『 あ る 雪 の 朝 突 然 に 』(論可)

いまのまさし               (JUNK−O)

 彼女は、復讐に現れたのだ……。

 その朝目覚めてみると、この二階にある狭い自室のベッドの上に、久しぶりに、窓から日が射していた。
 しかし、ひどい冷え込みようだ。ヒーターは時間通り忠実に始動したのだろうけれど、布団からはみ出した肩のあたりがだいぶ冷たかった。私は決意を固めると、一気に布団を跳ね上げてベッドから飛び出し……、ヒーターにかじりついた。
 「あー、さぶ、さぶっ。」
 窓の曇りを手のひらで拭いてみる。やはり。
 昨晩、一晩中降り続いたのだろう、私が初めて経験するようなドカ雪だった。見える範囲すべてが純白の柔らかなフォルムに包まれている。無音の銀世界……。
 すぐ下を走っているはずの県道も、駐車場も、車も、何も見えなくなっていた。まあ、とはいっても、そもそも、この山の中の峠道では、いつだって杉の木立に囲まれているので、見晴らしがきいたことはないのだけれど。
 今日は、その目の前の林でさえ、まるで、西洋の幽霊が集団で押しかけてきたような姿になって、その白い表面をきらきら輝かせていた。朝の光の中で、すでにまぶしいほどの景色だ。軒先からは、早くも溶けだした雪の滴が、窓ガラスの外をポタリポタリと落ちていった。
 美しい。
 ここに住み込むようになって五年だが、やはり、こういう眺めは、いつ見ても美しい。ただし、この自然の芸術品の鑑賞料は、ちょっと高い。この後待っている重労働で、たっぷり支払わなければならないのだ。
 私は、昨日脱ぎ捨てにしておいて、冷たく冷え切ってしまったズボンとシャツと、セーターを手早く着込むと、ヒーターのスイッチを切って、一階の店へ降りていった。

 ここは、山のレストラン、といえばちょっとは聞こえがいいが、要するに、峠をドライブに来る観光客相手の、喫茶店に毛の生えたような小さな店だ。もちろん、私がオーナーで……あるはずがない。実のところ、雇われマスターですらない。マスターは調理師免許を持っているオーナーのいとこで、私はただの管理人兼ウェイターにすぎない。とはいえ、客の少ないウィークデイなど、ほとんど私が一人で切り盛りするのではあるが。
 アルプス風の、鋭くとがった屋根を持つ店の二階の、いわば屋根裏部屋が私の住まいで、たまの休みにふもとの街か、(時には)車で二時間半ほどかかる県庁所在地の街に出かける以外、二十四時間、三百六十五日、私はここで暮らしている。
 夏は、涼しくて過ごしやすく、文句無くいいところだが、一年の半分ほどある雪の季節ときたら……。
 雪というのは、面倒くさくて、やっかいで、始末に困って、その上、恐ろしい。地元の人がそういうくらいだから、まだこの土地で日の浅い私などはなおさらだ。とにかく、今日は、県の除雪車がやってきて、道路の雪かきを終わるまでに、店の駐車場の方の雪を何とかしなければならない。
 こんな雪の深い日に、やってくる客もないだろうとは思うけれど、県道脇の店に車が停められないんじゃ、掴まえられるお客も掴まえられないというもの。それに、雪に慣れない東京の人間は、こんな日だって平気でやって来たりするのだ。哀れに立ち往生した都会の人を暖かく迎えてやれば、東京都内の三倍の料金を請求したといって、くってかかってくるやつもいないだろう。
 もっとも、私が東京を離れた直後発生した、あの東京神奈川大震災によって、首都圏が大打撃を受けてから、お客の数はめっきり減ったと言われているが……。
 いずれにせよ、まずは、駐車場の雪かき(というより「雪ほり」だけれど)、これが今日の最優先の仕事に決まった。あぁ、また、筋肉痛に苦しまなけりゃならないわけだ。

 などと、ぼんやり考えながら、私は店の中のストーブを付け、「凍結防止のために」冷蔵庫に入れてあったペットボトルの水道水を、やかんにあけてガスを付けた。同じく冷蔵庫に入れてあった食パンを、自分のためにトースターに入れ、こちらは昨日から商売用のビーフシチューの鍋を載せっぱなしにしてあったレンジにも火を付ける。

 と、その時、入り口のドアが、がたがたとなった。
 思わず、そちらを見やると、ドアの磨りガラスの向こう側に、明るい雪の照り返しに浮かび上がった黒い人影が見えた。
さすがに、一瞬、どきりとする。こんな日に来訪者があるとは……。いや、しかし、オーナーかマスターが心配して様子を見に来たのかもしれない。
 もう一度、いらだたしげに、ドアが震えた。
 「あー、ちょっと待って。」
 外にいる人物に聞こえないだろうとは思いながらも、声をかけて、私は玄関へ走り寄った。
 がたがたと、なおも外の人物はドアを揺さぶる。
 「ちょっと、ちょっとぉ。」
私が、ドアの鍵を開けると、勢いよく入り口が開いた。そして……。
 そこにいたのは、全く予想もしていなかった一人の女性だった。その人は、よくある安手のスタジアム・パーカーのフードを頭からすっぽりかぶったまま、赤い頬の笑顔で、こう、まくし立てた。
 「あー、よかった。いないんじゃないかと思っちゃった。何よ、この雪! クルマが走れなくなっちゃって。もう死ぬかと思った。あ、ストーブ! 」
 彼女は、私の脇をすり抜けて、ばたばたと店の中に走り込み、大きな据え置き式の石油ストーブに駆け寄った。
 フードの中から半分のぞく、その顔。その唇。しなやかなその身のこなし。
 頭の中が、瞬間、空白になった。
 なぜ彼女が!
 口もきけず、体も動かず、目を離すこともできずに、私は、硬直した。
 「君が……、どうして。」
 やっと出すことのできた声は、自分のものでないかのように、しわがれていた。
 彼女は、フードを脱ぐと、こちらを見てほほえんだ。そして、今度は落ち着いた声で、ゆっくり言った。
 「覚えていてくれたのね。ありがとう。」
 忘れるはずがなかった。
 彼女は、叡子は、五年前「別れた」、いや、正確に言おう、私が「捨てた」、かつての恋人だったのだから。

 彼女に求められるまま、私は夢遊病者のように、カウンターに入ってコーヒーをいれた。他にどうしたら良いか、思いつかなかったのだ。
 しかし、不思議なもので、いつもと同じ仕事をしてみると、いくらか動揺も収まって、彼女の様子を観察することもできるようになってきた。本当のところ、信じられないことだが、彼女は実際に目の前にいる。そのことは認めるしかない。
 彼女は、カウンター正面のテーブル席に座り、頬杖を着いて、右手に大きく開いたガラス窓から、熱心に外の景色を眺めていた。
 その横顔。ふっくらした頬。涼しげな瞳。無造作にポニーテールにしたロングヘア。ひとけのない薄暗い店内に、窓から差し込む光を浴びた彼女の顔だけが、妙に生き生き浮かび上がる……。
 不意に、彼女は笑顔を私の方に向けた。
 心臓が、びくんと鳴った。
 「変わらないわね、あなた。」
 そんなことはない。私はこのごろずいぶん腹が出てきていた。この数年、急速に歳をとってきたような気がする。変わらないのは、彼女の方だ。
 なぜか、人を引きつけずにおかない、その魅力。彼女こそ、全く変わっていなかった。
 「おまちどう。」
 私は、コーヒーを二杯、両手に持ってテーブルに行き、彼女の正面に腰を下ろした。
 彼女は、黙って、コーヒーに口を付けた。昔通りのブラック。
 「おいしいわ。」
 でも、叡子はそんなにコーヒーが好きな方ではなかった。この一言を言うために、彼女は、私にコーヒーをいれさせたのかもしれないと、ふと思った。
 「あー……その、元気そうに見えるね。」
 「ええ、何とかね。」
 二人とも、互いの目を見なかった。
 彼女はぽつり、という感じで言った。
 「ずいぶん探しちゃった……。」
 「……すまなかったと思ってる。」
 「ううん、いいの。会えたから……。」
 私は、五年前、誰にも告げずアパートをたたみ、全く知り合いのないこの土地へやってきた。幸い、すぐにこのレストランの住み込みの仕事が見つかって、以来、この田舎に半ば閉じこもる生活を続けてきた。過去の人生をすべて捨てたというわけだ。
 彼女は顔を上げて、もう一度ほほえんだ。けれども、その笑顔の下には、一言一言を慎重に選ぼうとする。緊張感が見て取れた。
 「学校がどうなったか、知りたい?」
 私は、黙り込んだ。
 そう、かつて、私は、中学校の教員だった。そして……、若くもあった。

 子供と学校をめぐる、陰惨とも言うべき様々な話は、いまさら私が語るまでもない。いじめ、暴力、薬物、体罰、詰め込み教育と、キイワードならたくさんある。
 結局、問題は、私のような人間が、あえてそのまっただ中の世界に、職を求めてしまったことの方にあるのだろう。
 私と同期くらいの多くの教師達は、不思議なことに、いつの間にか(それとも最初からなのか)こういうキイワードに「慣れて」しまうらしい。私だって、気にしないで済ます方法を知らなかったわけではない。しかし、私はどうしてか、こだわりを捨てることができなかったのだ。
 それは、いじめられっ子だった私が、いつの間にか身に付つけた「力に対する嫌悪感」の発現であったのかもしれない。
 まだ、学校には、かつて「日教組の闘士」だったような先輩教師が若干は残っていて、そうした一人に誘われるまま、私は教員の自主的な勉強会などにも参加したし、自分で考えた独自の教材を使ってみたりして、「よりよき」教師たらんと努力をしたのだった。
 しかし、それは残念ながら、現在の学校においては、校長を筆頭とした管理教育体制と、有形無形の様々な軋轢(あつれき)を生み出すことを意味する以外なかった。

 「そうよね。学校のことは思い出したくないよね。いいの、本当はそれも。ただ、話題がなかったから、聞いてみただけ。」
 彼女は、なんのために現れたのだろう? やはり、復讐?

 彼女、織布叡子は、そんな私の学校に赴任してきた、新任の英語教師だった。
 叡子を勉強会に誘ったのは私だった。まず間違いなく、当時の私たちのような「反抗的」な教師グループに関わろうとするものはいない。断られるに違いないと思いながらも、とにかく声をかけてみた。
 意外にも、彼女は至極あっさりと、勉強会に加わった。しかも、すぐにわかったのは、彼女のその頭のよさだった。
 メンバーが直面している具体的な問題を討論すると、彼女はその深層にある本質を的確に洞察したし、そして、それをまた、極めて原則的な立脚点から論理展開して、柔軟な解決策へと導くことができた。
 少し頑固ではあったが、物怖じせずに意見を述べ、しかも明るい、私は、そんな彼女に急速に引きつけられていったのだった。そして彼女もまた……。

 「あたしね、あなたがいなくなったことが納得できなかった。なんて言ったらいいのか、とても不条理なことのような気がしたの。」
 レンジの上のシチューが、煮立ちはじめてコトコト鳴った。

 彼女がなぜ私を愛したのか、私には今もってよくわからない。しかし、お互いの感情は、ほとんど物理的と言って良いほどの激しさで、急速に増幅していった。そのうえ、彼女は私を頼りにしているらしかった。私には彼女ほどの論理性も直感も行動力すらなかったのに。

 「あなたはあたしを支えてくれた。」
 「そんなことなかったんだよ。僕は自分を支えるだけで精一杯だった。でも君の前では、強い人間を演じているしかなかったんだ。君を失わないために。」

 私たちはそのころ本当に良く語り合った。政治のこと、小説や映画や音楽のこと。それだけでただ楽しかった。もちろん話題の一番の中心は、当然、学校と教育のことだった。仕事は苦しいことも多かったし、困難な問題も山積みだった。そんな中で、私たちが、お互いを支え合っていたことは間違いはない。
 ただ私は、心の奥底にしまい込んではいたが、ひとつの後ろめたさを常に感じざるを得なかった。彼女が私に求めたのは、仕事を前向きに進めていくための活力であったが、私が彼女に求めたのは、仕事のつらさを忘れさせてくれることだったのだから。

 「ここは、きれいなところね。きれいすぎるくらい……。」
 ふと、叡子は窓の外の景色に目をやって言った。その声にかすかに感じられるのは、不安?

 それは、四月の平凡な人事異動から始まった。私たちのグループのリーダーだった古参教員は、ずいぶんと離れた学校に転勤させられ、校長も替わった。この新校長こそ、学校関係者の間では特に有名な超保守派で、これまでいくつもの学校で、管理強化を「成功」させてきた男だった。明らかにこれは、わずか四、五人しかいない我々の活動をつぶすために敷かれた布陣だったのだ。
 他の仲間達より少し年長だということで、私は突然リーダー格になってしまった。当然、私は校長からの攻撃の矢面にさらされることになった。これまでは、リーダーに寄りかかるばかりだったのに、今度は一転してメンバーを守る立場に立たされることになったのだ。
 きびしい管理体制は、実に巧妙にかつ執拗に実行された。表面的には、露骨な差別や選別はしないが、職員室の内外では私たちのグループに対して、悪意のある噂がばらまかれた。一方で、研修に名を借りた思想統制が強まった。自主勉強会のメンバーは他の教師からの孤立感に苦しみ、校長から押しつけられるあまりに過剰な仕事量の重圧の下で、次第に追いつめられた気持ちになっていったのだった。
 しかし、叡子は、その中でもよくがんばった。彼女が学校当局に反論するとき、その論理は、論理そのものとしては全く正しかった。しかし、古ダヌキ達相手には、貫禄負けというのか、小娘の戯言(ざれごと)として、簡単に一笑に付されてしまうのだった。
 彼女は私の前では、よく悔し涙を見せるようになり、時には、ヒステリックになった。
 もちろんそのころには、私も、自分自身を守ることで精一杯になっていたが、彼女とメンバーの前では常に強そうなふりを続けた。本音で話しあうことが何よりも大切だったのだろうけれど。そのことが頭でわかってはいても、ついにそんな風にはできなかった。

 「あのことは、あなたのせいじゃないわ。誰もあなたを責めてない。」
 もちろん、彼女は一度だって、私を責めたことはなかったが。

 事件が起こったのは、そんなさなかだった。私のクラスの生徒が、事故死したのだ。その生徒は大雨で増水した川に落ちて死んだ。遺書はなかった。警察では、自殺か事故か判断することができなかった。
 しかし、PTAから、いじめによる自殺であるという声があがってきたのだ。担任に責任があるという非難の声が、一斉に私に向けられた。何か信ずべき根拠があったのか、それとも、裏に校長の策謀があったのか、それはわからない。しかし、自分の生徒が死んだというショックにくわえて、連日の校長やPTA役員との拷問に似た話し合い、もしかしたら自分のやり方に問題があったのではないかという自責の思い……、ストレスは限界に達した。
 夜眠れなくなった。一日中頭が混乱した。もう授業どころではなかった。叡子だけが私の支えだった。しかし、彼女自身も目の前の自分の問題が重いことは明らかだった。結局私は最後の最後まで、彼女を支える役を演じるしかなかった。
 その前後のことを今ではなぜか、はっきりと思い出せない。私は、とにかくここから逃げ出せれば、他はどうでもよいという気持ちになっていたのだろうと思う。ある日私は学校を休んで、下宿の数少ない家財道具と、大量の本を一気に処分し、アパートの大家に解約を申し出、辞表を書いて学校に郵送した。
 しかし、それ以外は、叡子にもメンバーにも書き置きすらできなかった。彼らを見捨て、自分の責任を放棄することをどう説明したらよい? 何も言うことなどできなかった。何を言ったところで、自分が許されるなどとは思えなかった。
 どうするというあてはなかった。できることなら、静かに消えてしまいたいという思いで頭の中はいっぱいだった。
 私は、責任の重さに押しつぶされた。いや、自分自身に押しつぶされたと言ったほうがよい。

 「僕は君を守りきれなかった。他のみんなのことも。自分一人で勝手に逃げ出した卑怯者だ。」
 「あたしの方こそ、謝らなきゃ。あたしもあなたを守ってあげたいと思っていたのよ。でも、結局あなたにばかり負担をかけちゃったんだよね。」
 彼女は、無理矢理作ったような笑顔を向けた。
 「でも、もういいんじゃないの? あなたはもう充分苦しんだ。あたしはこだわってないよ。もう、そんなこともどうでもいいの。」
 冬の日差しは、店の中程まで、差し込んでいた。シチューのにおいが、かすかに漂っていた。
 「……今日来たのは、何か目的が? 」
 「別に、なんにも。ただ、帰ってきて欲しいとは思ってる。あたし、あなたにすっかり嫌われちゃったのかもしれないけど。あなたの重荷になっちゃったから。
「だから、なにも、あたしのところに帰ってきてと言ってるわけじゃないの。先生をやるのがいやなら、学校に戻らなくてもいい。でも、こんなふうに隠遁(いんとん)するような生活はおしまいにして、もう一度、元のあなたに戻って欲しい。」
 もちろん、私は彼女を嫌ったことなどない。ただ……。
 「もう僕は昔の僕じゃない……、いや、というよりはこれが本当の僕なんだと思う。この生活に満足しているし、ここでは何の進歩もない代わりに、何も起こらないし、平和に暮らすことができるんだ。」
 「そんなの、そんな言い方、悲しいよ……。」
 「僕なんか、もともと教師なんて向いてなかったんだ。そもそも人間嫌いだし、他人とまともにつきあうこともできない。ましてや、子供の気持ちも分からなかったし、君にとっても良い相手じゃなかった。そんな人間なんだ、僕は。だからこういう生活でいい……。」
 「もうやめて! あなたは、そうやって自分を傷つけることが、他人(ひと)も傷つけることになるということが解らないんだわ。どうして、そんな風に、自分の目からしかものを見ないの?」
 彼女は、私の言葉をさえぎって、叫ぶように言った。
 私は口をつぐむしかなかった。それに、私にはまだ、彼女の真意がつかめなかったし。
 しばらくの沈黙があった。ドサリと、どこかで、雪が落ちる音がした。私はおもいきって、口を開いた。
 「……もしかしたら、君は、僕が君のことを忘れることを許さないために、ここへ来たんじゃないの? それも……。
 「それも、僕には二度と君に懺悔することができない、いや、会うことさえできないことを承知の上で。僕に一生、君にした仕打ちを後悔させるために。これは復讐なの? こんな事言う資格なんかないかもしれないけど、君のやり方は残酷だ。だって君は……」

 あの日、あの東京神奈川大震災の日。私が東京から逃げ出した数ヶ月後。
 私は確かに、この店のテレビに、その名前が映るのを見た。翌日には、手に入る限りの新聞を買いあさった。実をいえば、彼女の実家にまで電話さえした。
 しかし、最初のテレビの報道を誤報だと言ってくれるものは、どこにもなかった。
 彼女は……。
 彼女は、その時、火にまかれ始めた校舎の中に、最後に残った生徒を助けに、飛び込んでいったきり……、帰ってこなかったのだ。
 アナウンサーの表情のない声が「オリフ・エイコさん」と読み上げたのを、私は、確かに聞いた。私の懺悔の機会を、永遠に奪う言葉を。

 そう。
 彼女は死んのだ。

 「だって君は、死んだはずだ……。」
 私は、やっとのことで言葉を押し出した。
 彼女は、とまどった表情をして、私を見た。
 「何を言ってるの?」
 彼女は、こわばった声で笑おうとした。

 私は、怖くて今まで見られなかった光景を見るために、ぎこちなく、表側に向いた一番大きい窓に近づいた。
 凍りつき、抵抗する窓を、ぶちこわすような気持ちで、開けはなつ。冷気が、一気に吹き込んでくる。そして……。

 降り積もった雪は、午前中の太陽に照らされて、キラキラ輝いていた。しかし、どんなによく目を凝らしてみても、県道があるはずの方向からも、裏道の方からも、そして、玄関のすぐ前にさえ、……何の踏み跡も無かった、兎のものさえ、全くなにも。

 私は、窓を閉めた。

 自分の声が震えるのがわかった。
 「君は、君はやっぱり幽霊なの? 」
 彼女は、悲しそうに、ため息をついた。
 「あなたは、いつもそうね。自分の立場からしか考えられない。良くも……悪くもね。」
 叡子は、いや叡子の亡霊は、泣きそうな顔をして、私を見据えた。
 「なぜ、自分の方が生きているといいきれるの? こんな……」
 彼女は、両手を広げて、店内を指し示した。
 「こんな、完璧に美くて、あなた一人しか存在しない世界が、本当にあると思っているの。
 「あなたにとって最も理想的な、平和で穏やかな世界。でも、これじゃまるで母親の胎内じゃないの。
 「これが、みんなあなたの夢の世界の出来事かもしれないと、疑いもしないの?」
 なんだと?
 「ねぇ、もしかしたら、あなたがここで暮らした五年間なんて無かったかもしれないじゃないの。あなたは、確かに、あの時アパートの部屋を整理した。でも、それは、あてのない旅に出るためなんかじゃなかった。
 「あなたは……、あなたは、薬を飲むために、部屋を整理した。すべての後始末をして。そして、今、あなたは病院の集中治療室にいる。あたしが見つけたから。」
 今度は、私の方がとまどう番だった。
 こいつは何を言っているのだ。私は無意識に、もう一度、外の雪景色を眺めた。
 「その真っ白い雪は、あなたがかすかに感じている病院の壁の色。そのシチュー鍋の音は、生命維持装置の音。あたしはあなたの枕元で呼びかけている。そして、あなたは、長い夢を見ているの。夢の中では五年もたったと感じるほど。」
 もちろん、これは夢ではない。あまりにもはっきりしている。ほら、林の下の方には、野兎が現れて、まぶしそうに、あたりを見回している。
 「大震災なんか無かった。あたしも死んでない。あなたは、まだ何も失っていないの! ねぇ、そんな風に考えることはできない?
 「あなたはちょっと自分の世界に逃げ込んだだけ。必ず戻れるわ。あたし信じてるもの!
 「お願い、ここにいてはだめ。どうか帰ってきて。もう、時間がないの。この世界にとらわれたままでいたら、あなたは……!」

 シチューの鍋の煮える音が、静かな店内に、心地よく響いた。

 振り向いたときには、彼女の姿は無かった。ただ、コーヒーカップが二つ、もう冷え切って残っているだけだった。
 私は、二、三度強く瞬きをして、頭を振ってから、カウンターの中に戻った。もうすっかり冷めてしまったトースターの中のトーストを、飲みこむように腹におさめると、身支度をして外に出た。

 天気は本当に良かった。サングラスをしてもまだ、この一面の雪景色は、目にまぶしい。自分以外に人間が存在する痕跡は何も見えない。
 空を見上げる。
 雲一つなく、どこまでも深い、美しい空。なんの音もしない。
 さっきのは、私の幻覚だったのか。それとも、叡子は本当にやってきたのだろうか。彼女は、私を励ましに来たのか、やはり、復讐に来たのか。そうだとすれば、彼女は目的を達成したのだろう。なぜなら、最も思い出したくなかった感情を、私の胃の奥の方に、錘(おもり)のように固めてしまったのだから。
 彼女をまだ愛しているということを。そして、彼女が永遠に手の届かないところに行ってしまったのだという喪失感を。
 でも、しかし、彼女は去り際に、気になることも言っていった。それは、もしかしたら……。

 「いや、いや。」
 私は、気持ちを切り替えて、スコップを目の前の雪に突き立てた。雪の固まりをひとかたまり掘り起こす。その下には、また純白の雪。とにかく、はやく駐車場を使えるようにしなければ。
 それが、今の私にとって、唯一の責任なのだから。

                        (了)

              (Creative Synapse 1997.1.2版)