■マンガ■
『アタゴオル−アタゴオル玉手箱編・5』
(スコラ漫画文庫版) ますむら・ひろし
『アタゴオル物語』は読んでいたが、今回文庫化されたのを機に、『玉手箱
』を読んでみた。
はたして初出がいつかわからないのだけれど(「文庫」なんだから最低その
くらいの注記があっても良いと思うが)、20代、30代の友人達が一様に影響
を受けたということだから、おそらく80年代半ば以降の作品だろうと推察する
。ぼく自身はその存在を最近まで知らなかった。
一読して、『物語』に比べ格段にファンタジーとしての質を向上させている
と思った。
それは、たぶん、ストーリーよりもコンセプトが重視された結果であろう。
この作品の場合、ストーリーはコンセプトを表現するために存在しており、
コンセプトの従属物になっている。それは、ファンタジー作品の究極的な姿であ
ると言って良い。別の言い方をすれば、それは小説と言うよりは詩であるという
ことだ。読者は作品そのものよりも、作品の余韻の中になにかを見いだすのであ
る。
この自分が生きている世界とは別のところに、別の論理、別の価値観によっ
て成り立つ世界があるという、「別の世界」のリアリティがこの作品の核心であ
る。おそらく、そのリアリティは読者の側の、アタゴオルを切望する意識が強け
れば強いほど、くっきりと立ち現れるのであろう。(99.4.11)
■マンガ■
『3x3EYES』1〜29
高田裕三
おそらく、まだ完結していないのだろうが、古本屋でバックナンバーを買い
込み、ほとんど一気に読んだ。
おもしろい、と同時にとても勉強になった。
作者の構想はたぶん、描き続けていくうちにしだいに変化していったはずで
ある。興味も移っていたっだろう。しかし、そうした変化を見事に作品の中に消
化してきた手腕は、感嘆するほか無い。
ひとつの作品の中に、これほど多彩な舞台設定を次々繰り出して行けるのは
、実力であると見たい。
■小説■
『日蝕』
平野啓一郎
意外にもおもしろかった。
芥川賞というのは、たいがいつまらないもんだけど、今回は意外でした。内
容は、いわばハード・ファンタジー。
魔女狩りが横行する中世フランスの貧しい田園地帯を舞台に、キリスト教の
若い学僧が、極めて異様な神秘的事件に遭遇するという話です。
もちろん、ぼくには、作者がいったい何を言いたいのか、ぜーんぜんわかり
ませんでしたけど。f^_^;
流し読みでちらっと読んだだけでは、ちょっと無理ですね。
でも、「わかる・わからない」というのと、「おもしろい」ということとは
別の次元です。わからなくったっておもしろい、ということはあるわけです。「
エヴァンゲリオン」がそうでした。(ちなみに、もうあちこちで言われてるかも
しれませんが、『日蝕』と「エヴァンゲリオン」との関連については、ちょっと
興味のあるところです。)
ただ、もしかしたら、初出「新潮」−>芥川賞というのが、この作品の不幸
であったかもしれません。もしこれが、「SFマガジン」−>日本SF大賞or日
本ファンタジーノベル大賞だったら、こんな風に文体にばかり注目が行かず、内
容的な部分でもっと論議されたのではないかという気もします。
この擬古文的文体が、この作品にとって必然的選択であったということは良
くわかります。それだけに、そこの部分だけを切り取って騒いでいるマスコミの
態度はどうも・・・・。
この小説には、この文体と緻密な時代考証が、絶対に必要でした。
そういう部分で重厚さと、リアリティを作っておかなければ、「よくあるヤ
ングアダルト系小説」の間に埋もれてしまうしかなかったのです。
この方法は成功したと思います。(99.3.3)
■映画■『
ガメラ3−
邪神<イリス>覚醒』(金子修介監督)
ガメラが完結してしまった。
「最後」のガメラは、「パトレイバー2」であり、「エヴァンゲリオン」だ
った。オマージュというには、あまりに生々しく、まさに、もうひとつの「パト
2」、もうひとつの「エヴァ」とさえ言っても良い。
この映画は、ぼくが「あらかじめ失われた世代」と呼んでいる、1960年代、
もしくは昭和30年代生まれ世代のSF・アニメ系映像作家の仕事の集大成なの
だ。それは金子修介であり、押井守であり、伊藤和典であり、庵野秀明であり、
樋口真嗣である。
正直に言って、映画の出来そのものから言えば、前作、前々作には及ばない
。しかし、そうなった理由はわかる。作者達は、自らのメッセージを、この映画
に過剰に込めてしまったのである。そして、それはまた、言わないではおられな
いことだったのかもしれない。
別の言い方をすれば、1、2作がハリウッド映画のテイストを器用に消化し
たことによって成功したのに対して、本作はまさにオーソドックスな日本映画に
なっているのである。そしてそのスタイルこそ、「メッセージ」としての映画が
求めるスタイルだったのだ。
もし、自衛隊が全面協力したから反動的映画だ、という程度の批判しかでき
ない人があれば、この映画とそれを生み出した「時代」に対する感受性が、あま
りに弱いと言わねばならない。
はじめに、映像技術的な問題を一点指摘しておくならば、CGの多用は、結
果的に映像のアニメ化を呼び、とりわけ今回のイリスの表現は「エヴァンゲリオ
ン」に酷似してしまった。日本の怪獣映画が、着ぐるみ独特の重量感とリアリテ
ィを長所とするだけに、今回の表現は物足りなさを残すものとなってしまった。
アメリカ版「ゴジラ」も、そうだったが・・・・。
さて、それはともかく、「メッセージ」をどう読むか、だ。
ぼくは、この作品にいくつかのテーマを読みとる。
そのひとつは、子供の問題。綾奈役の前田愛は、ちょうどこの作家世代の子
供くらいの歳。(それにしても、愛ちゃん、いつも必ず親のいない役なのは、な
ぜ? f^_^;)
綾奈が象徴する今の子供達は、世界に対して激しい憎悪を抱いている。その
憎悪は、新しい衣をまとったさまざまな「まがまがしい」アイテムと結合し、融
合して、この世界に対する復讐戦を敢行しはじめている。そのアイテムは、バタ
フライナイフであり、毒物であり、麻薬、クルマ、伝言ダイヤルであったりする
わけだが。
もちろん、アイテムそれ自体が本質的に凶器であるわけではないけれど、怒
れる子供達がアイテムを求め、アイテム(もしくはそれを提供する大人)が、子
供を求めたとき、怒りは物理的な実態を獲得し、増幅され、暴走を始める。
イリスは、まさにそうしたアイテムの象徴と読みとることもできる。
しかして、ガメラはその怒りの対象であると同時に、その怒りを自らの肉体
で受け止める存在でもある。自らを傷つけながら、真正面から闘い、綾奈を救い
出す、実にその姿は、この映画を作った者達の理想として描かれた「大人社会」
像なのではないのだろうか。
ガメラという存在が、常に「子供の味方」であったということへの、ひとつ
の解釈がここに示されている。世界が絶望的な状況の時、先が見えず、世代間の
コミュニケーションが破壊されている今、それでも次の世代に希望を託したい、
子供を守っていかなくてはならないというメッセージが込められているように、
ぼくには思える。
ガメラが自らの内に蓄えたマナを放出し、二人の子供の命を復活させた意味
は、そこにあるのだ。
今、「絶望的状況」と書いた。そう、この時代に子供達に夢を託すというの
は、実は絶望の果ての祈りにも似た叫びでもある。
本作において、怪獣という存在の秘密が、地球自身の生命力=マナとの関連
で明らかにされている。マナの弱まった部分にこそ怪獣は発生するらしい。これ
は、マナを弱めた主原因=人間を駆除するという、「自然のメカニズム」もしく
は「古代人のプログラム」が働いているためだと考えられる。
そして、世界中でもっともマナが弱まった地域として、日本列島があげられ
、世界中から日本に怪獣が押し寄せてくるというのだ。 本作のラストでは、全
世界で発生したハイパーギャオスが、日本を目指して来襲しようとしている。
日本は世界で最も地球の生命力を消費し、そのことによって自らも滅亡しよ
うとしているというのである。
もちろん、こうした着想は、我々の目の前にある現実から得られているだろ
う。手の施しようのない環境的、精神的荒廃、どうしようもないほどの社会の膠
着状態、それが本当に手だてのない末期的状況であるのかどうかはともかく、少
なくともこういうイメージは、現在、多くの人が共有するものである。
こうした不安と混沌をありのままに描いたのが「パト2」であり、どこまで
行っても絶望は拭えないのだということを暴き出したのが「エヴァンゲリオン」
であったはずだ。
これに対し、『ガメラ3』はどんなメッセージを訴えたのか?
第一話で3羽のギャオスを倒すために、ギリギリの死闘を演じなければなら
なかったガメラは、本作のラストシーンでは片腕を失いながらなお、数知れない
ギャオスを唯ひとり迎え撃つ決意を固める。その決意は絶望的であり、悲壮であ
る。
絶望の中から、それでも未来を見ずにいられない、絶望するからこそ、何も
のかを信じることが出来る。
ガメラが完結したというのは、見たとおり、ストーリーに結末が付いたから
ではない。話の続きが続けられなくなったが故である。それは、我々が、未来へ
続くべき我々自身の話を、暗い不透明感によって紡ぎ得なくなったということを
意味している。
ガメラの勝機は限りなく少ない。
ガメラの最後の雄叫びは、勝利の確信ではない。それはまさしく、世界に対
する祈りに他ならないのだ。(99.3.7)
*** 追 記 ***
いろいろホームページを歩いていると、「G3」を高く評価する意見が目立
つ。若い人達は概して絶賛しているようだ。ここで、おもしろいのが、99/4
/3付けの朝日新聞朝刊のコメント集。(関係ないが、この”4人の「識者」が
ひとつの作品にコメントする”企画、始まったときは意見が真っ向から対立して
おもしろかったが、最近は穏健な意見ばかりでつまらなくなった気がする。)
岡田斗司夫と開田裕治は絶賛派、小谷真理は小理屈をつけた高評価、竹熊健
太郎はやや低評価。
で、絶賛系の意見は、画像がすごいということにつきている。映画は画だ、
というはっきりしたポリシーである。一方、竹熊はシナリオがごたごたしている
、そのためにせっかくの画が生きてこない、という意見で、これはぼくの先輩で
あり友人のシナリオライターH氏も同様の意見だった。
まあ、これは映画の見方のスタンスの違いだろう。シナリオやストーリーに
意識の向かいがちな人間は、特撮映画の場合、ストレートにして単純明快、力強
いシナリオでないと、ついついストーリー展開の方に注意が行ってしまい、映像
を楽しめないという欠点を持っている。ぼく自身がこのタイプだ。
例外は、キューブリックの「2001年」くらいのものだが、あれは別格。
小谷のガメラ=逆ギレおやじ説は、ぼくの意見にかなり近く、やっぱりこう
いう理屈で楽しむ人もいるんだなぁと、なんとなく嬉しい。(99.4.11)
|