「想像力を欠落させた僕ら」

 子供はいないし、学校の先生でもないが、教育問題となると、ついつい気になってしまう。学生運動出身の性(さが)と言うべきか。
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 例えば、所沢高校の入学式問題。いろいろ言いたいことはあるが、一番問題だと思うのは、子供達にはものを考える力が無いだとか、普段さんざん現状を嘆いている自民党の偉いさんが、いざ高校生が自主性を発揮すると、これを押しつぶそうと全体重をかけてくるという身勝手さ。
 そもそも、現代の若い世代に拡がる無気力を作り出した遠因は、かつて学生運動を根絶やしにしようと、自民党と文部省が徹底的に学生の自主性を奪い取ったことにあったのに。こういう茶番には、もうおかしすぎて涙が出てきそう。
 「国際人」を育成するために「愛国心」教育が必要だ、という恐ろしい屁理屈が唱えられている。そんなことより、日本から汚職と差別と不公正を払拭し、子供達が「愛国心」を持てるような国にするように努力した方が、よほど効果的なのでは?。
 今最も核心的に必要とされているのは、「国を愛せ」などということよりも、まず隣人を愛すべしと訴えることではないだろうか。そしてそれはまた同時に、他者を理解するための想像力を喚起することでもある。
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 しかし実は、それは現在、こどもたち以上に、大人の中に欠落した能力なのだということに、気づかなくてはならない。
 ぼくの職場の聴覚障害者のパートタイマーは、辛い作業を強いられている。
 あらかじめ言っておけば、確かにそれはこれまでも誰かがやってきた作業であり、今現在でも、彼女を含めて他のパートが交代でやっている作業ではある。
 しかし、聾者の彼女には辛い。
 それはなぜか? それは、彼女が作業の目的や、やり方を理解できていないからだ。
 もうひとつ公平に言えば、担当者は彼女に説明しなかったわけではない。ただ、それは彼女に伝わっていないのだ。
 社員は誰も手話ができない。話は主に日本語による筆談。ところが彼女は、日本語が不得手だったのである。
 考えてみれば、それは不思議なことではない。彼女は二歳の時から一度も日本語を聞いたことがないのだから。彼女の母国語(ネイティヴ)は日本手話なのである。
 日本手話には、助詞も助動詞も過去・未来形も、ほとんど存在しない。日本語とは全く別の言語なのである。いわば彼女は、突然外国語だけの社会に放り込まれたみたいなものだ。
 ところが、そのことに気づく者がいない。ぼく自身、同じ作業を一緒にやる機会が無いこともあって、恥ずかしながら、彼女と手紙でやりとりしてはじめて、そのことに気づいたのでる。
 彼女の上司は、彼女を他の社員と「平等に扱う」が故に、彼女の作業効率が悪いことに腹を立てる。彼女は作業に時間がかかり、同じミスを繰り返し、製品の数量を間違え、不良品を混入させる。
 上司は、彼女が手話による指示を求めると、かたくなにそれを拒絶してこう言う。
「同情はするが、私には時間が無くて手話はおぼえられない。そもそも当初の約束では、唇を読んで話ができるということだった。」
 それはそうかもしれないが、日本語を理解すること自体が得意でない人が、仮に唇を読めても意味を理解できようはずがない。今のところ、彼女とコミュニケートするためには、手話以外の方法はないのだ。
 冷静に考えれば理解できることだが、その上司は絶対にそのことがわからない。この事態は、上司の想像力の範囲を超えてしまっているのである。
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 ぼくは毎日、国道17号線を使って自転車通勤をしている。車道は恐くてとても走れないので、歩道を走る(自転車通行可の歩道ですよ、念のため)。
 これが雨の日になると、すさまじい。
 クルマの水しぶきが、頭よりも高いところまで跳ね上がり、降りかかって来るのである。こちらにしてみれば、ちょっとした雨でも、豪雨のようなものだ。
 ドライバーは気づいていないのだと思う。
 まず、車道を走っている自分が、歩道上の歩行者に影響を与えているとは、想像がつかないだろう。また多少気づいたとしても、普段の日と変わらずに運転しているだけだから、自分に責任があるとは思わないのだろう。また、スピードを落とせば、仕事の効率が下がり、さらに道路渋滞を引き起こしてしまうという背景もある。
 それに、たかが水しぶきが、歩行者の命にかかわる訳ではないと思っているのかもしれない。
 この場合も、歩行者の苦痛というのはドライバーの想像力の限界をはるかに超えているのだ。
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 我社のパートの責任者にせよ、国道を走る運転者にせよ、彼らがけっして悪人というわけではない。むしろ、ごく普通の真面目な社会人なのだ。
 しかし、そういう、ぼくを含めた「普通」の人々には、自分(のみ)にとって常識的なライフスタイルを少しでも超え出る事態を想像することは、著しく困難なのだ。自分とちょっと違った人のことを理解することができないのである。それは、「いじめ」の構造にもつながっていよう。
 所沢高校問題について、ごく善良そうな、しかし根強い「常識的」意見の一つに、「社会生活の中では、たとえ気に入らないことがあってとしても、自分勝手なことをしてはいけない」というのがある。
 この場合、自分勝手ということの中に、「みんなとちょっと違う」ということまでが含まれてしまうのが、今の我々の社会なのだ。
 それは「ちょっと違う」人や思想や行動は、理解不能であり、カオス(無秩序)であり、そうであるが故に危険であり、排除されるべきものだという意識である。
 その意識が、人々の差違をさらにこと細かく追求し、その結果自分の見える範囲の外にあるものに対する想像力をさらに狭めるという再生産構造を作る。
 こうして社会の階層間、グループ間の断裂はどんどん深まり、意志疎通は困難になっていく。
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 先日、新聞の投書欄に、公共交通の車内での盲導犬に対するマナーを知らない人が多いという意見が載っていた。可愛いからとかまうと、犬は遊びたくなってしまい、それを抑えなければならないので、かえって犬に可哀想なことになるのだという。
 「ゆとり教育」という名の受験戦争の激化政策をとるよりも、義務教育に手話や、点字を導入し、障害者や外国人との交流をカリキュラム化し、共生の為のルールを教えたらどうだろう。子供達に、自分と「ちょっと違う」人々が、実は自分と同じ人間なのだと気づかせてやりたい。
 だって、それが本当の国際人ってものでしょう?