−時事エッセイ−

     「 風 の 吹 か な い 荒 野 」

            い ま の ま さ し

 N君、ごぶさたしています。その後、小説はどうですか?

 世間では「毒物混入事件」がブーム化してしまい、連日のように類似事件が発生していますね。君が以前指摘していたように、想像力と倫理感を失った人々は、破滅型社会への傾斜を加速度的に進めているように思えます。
 そしてまた今度も、中学生が毒物事件の当事者のひとりとして登場してしまいました。
 N君、君には異論があろうかと思いますが、やはりぼくには、子供達が、今、追いつめられているのだと思わざるを得ません。
 子供達の世界は、どうしようもない閉塞感に覆われているのです。少なくとも、ぼくにはそう見えます。しかし・・・・
 それにしても、なぜ子供達は、こんなにも追いつめられてしまったのでしょうか。ぼくは、それが、子供から「子供」が剥奪された結果だと考えるのです。

 かつて、子供は子供でした。
 子供とは何でしょうか? それは能力が未発達であるが故に、大人から保護され、養育される存在です。だからこそ、片方では、一人前の権利も与えられないわけです。これは、人間だけの話ではありませんよね。たいていの生物の幼体もそのようにして育てられています。鳥にしろ、哺乳類にしろ、魚類の一部でも、成体は命がけで餌を運び、外敵から子供を守ってやります。
 子供は、その庇護の下で「遊び」、次第に生活の方法を学び、やがて巣立つのです。

 現代の子供達は、はたして「子供」なのでしょうか?
 日本の子供は、生まれ落ちたときから、激しい競争の渦中に投げ込まれてしまいます。彼らは、他人よりも少しでも早く多くの「能力」を獲得しなければなりません。それはつまり、身体障害などを持たない健康体で、文字や数字をひとつでも多く知って使えるということ。ようするに入学試験に合格する能力なのです。そうした能力がすでに義務教育前に求められているのです。
 学校に入った後は、もちろんその程度が加速度的に強まっていきます。小学校は中学のためにあり、中学は高校の、高校は大学の、そして大学は企業への就職のために存在しています。(昔は大学に入ったら遊べたものなのにねぇ。就職協定もあったし)
 確かに、どの生物の幼体も生存競争に打ち勝たなくてはなりません。しかし、そこには同時に成体による保護があります。
 日本の子供達はどうですか?
 残念ながら、親は外敵から子供を守ってくれる存在ではありません。むしろ(親の気持ちとはうらはらに)、今や親が子供にとって最大の敵であるのです。
 親は子供達に様々な義務を負わせようとします。塾に行くこと、スイミングスクールに通うこと、テストで良い点を取ること、進学校に入ること。実はこれは、子供を保護・養育しているのではありません。
 食事と睡眠の場所を与えることが保護ではないのです。学習塾に通わせるのが養育なのではないのです。子供に向かって「能力」を獲得せよ、と迫るのは、つまり「自分の身は自分で守れ」と言っているだけなのであって、「私があなたを守る」というのとは正反対の事柄なのだということです。
 親は未成熟な子供を、弱肉強食という大人の論理が支配する「社会」という凶悪な世界に、裸で放り込んでいるのです。そして「勝ち抜け」と命令する。

 子供自身のためという大義名分の下に、子供達は毎日、分刻みのスケジュールで学校と塾と家庭を行き来しています。
 「遊び」はそのスケジュールの中に組み込まれたひとつの枠でしか無くなってしまい、「息抜き」「リフレッシュ」の時間に落とし込められてしまいました。本来「遊び」こそが、子供達に自然に生活の方法を教える、重要な過程であったのに。
 今や、子供達は、肩こりと食欲不振に悩まされながら、栄養ドリンクを飲み、寝不足の顔でため息をついているのです。冗談ではなく、現在もっとも超過労働を強いられているのは、小中学生かもしれません。

 子供達は、「親・大人」という権力の前に、選択の余地無く、奴隷や農奴のごとくに働く義務を負わされているのだという以外ありません。ようするに彼らはもはや子供ではないのです。
 では、彼らは大人なのか? しかし、「大人」達は彼らに依然として一人前の権利を認めようとはしません。(今年の春、全国的に報道された、埼玉県所沢高校の問題を見ても明らかでしょう。高校生でさえ、自主的に物事を判断し行動する権利が認められていないではありませんか)
 そのことの例証は、たとえば我が国の交通問題などからも見て取れます。
 交通事故が起こった場合、子供が飛び出したのだということになれば、加害者の責任は大変に軽くなります。悪いのは飛び出した子供の方にされるのです。
 学校でも地域でも、子供達に、信号を守るように、道路の横断には注意するように、道路で遊ばないように、黄色い帽子をかぶれ、横断歩道では手を挙げてと、こと細かく指導が行われています。(ドライバーの方はたいていの場合、交通法規を無視してスピードを出し、一時停止を怠り、騒音と排ガスと吸い殻をばらまいているのにですよ!)
 ようするに、子供達に自分の身は自分で守れと言っているのです。責任はお前らにあるのだと。圧倒的な破壊力を持つ無謀なクルマをかわす能力がない子供は、死んだって仕方ないのだと教えているのです。
 確かに現実的にそうかもしれない。しかし、そもそも注意力が低いからこそ子供なのではないでしょうか。ボールを追いかけるのに夢中になって、道路に飛び出すのが子供というものなのではないでしょうか。でも、この社会では、そんな言いぐさは甘えでしかないと見られているのです。
 しかも、もちろん子供自身は自動車の運転免許証を取得することはできません。一方的に歩行者にされています。
 社会の一般の構成員と同じ(か、それ以上の)義務を負わされていながら、同等の権利を認められないものを何と呼ぶか。「二級市民」もしくは「下層階級」ですよね。歴史の中では、そういう披抑圧集団が繰り返し登場してきました。
 しかも、日本の子供達は披抑圧「階級」「階層」としての同族意識、連帯感さえ持てない、全く孤独の状態に置かれているのです。(もっとも、ドイツあたりでは、小学生や中学生が団結して立ち上がり、選挙年齢の無制限引き下げを訴えているそうですが)
 子供から「子供」が剥奪されてしまった、とぼくが主張する所以です。子供達は大人社会から迫害されているのです。

 N君、笑っていますね。
 わかりました。告白しましょう。
 君がよく知っているように、こんなことを書いても、なお、ぼくは決して子供達の味方などではありません。むしろ、日々子供達を様々な形で追いつめる側に、直接、間接に立っていると言わざるを得ない。要するに、ただの普通の大人でしかないのです。
 でも、N君。
 しかしなお、あえてぼくがこのような偽善的な文章を書くのには、やはり、理由があるのです。
 それは、この問題の本質が、「大人社会」の方にあるからに他なりません。子供社会に吹き出している問題は、間違いなく、大人社会の問題の直接的な反映でしかないのです。

 初めの問題に帰りましょう。なぜ親たちは子供に「能力」を求めるのか?
 大人の社会が、「能力」社会だからです。
 いつからそれがスタンダードになったのか、記憶が曖昧なのですが、少なくとも現在では、「実力主義」は大変もてはやされ、社会の常識となっています。
 以前の(戦後)日本社会は、「終身雇用制」の社会であり、「平等」であることが尊重され、みんな一蓮托生であるというイメージがありました。でもそれはまた、先走ることがいさめられ、個性が押さえつけられる社会でもありました。
 おそらく、そのことに企業の側も民衆の側も、それぞれの立場から納得できなくなったのです。

 その結果、激しい生存競争、サバイバルゲームが始まってしまいました。
 この時代、「能力」のない者は容赦なく排除されていきます。
 「能力」とは、すなわち、カネを稼げる力のことです。
 いかに、自然の美しさに感動できる力があっても、弱者をいたわる優しさを持っていても、それが「カネを稼ぐ」ことに繋がらないならば、彼は「無能」です。
 そして、「能力」のある強い者だけが生き残るという原理が、社会全般を支配するようになりました。強者というのは、つまり、よりランクの高い学校を卒業した者であり、事業の成功者や一流企業の社員であり、若者であり、男性でありするわけです。力のある者は、より力のない者を踏みつけにすることができる、という価値観が蔓延しています。
 踏みつけられたくなければ、力を獲得せよ、それができないのなら、どこまでも落ちて行け、それが今の日本社会の主流的な考え方です。

 N君、確か君はフリーターだったと思いますが、国民年金は払っていますか?
 今テレビで、年金の未払い者が増えているという特集を見ました。
 民間の年金保険に入っている未払い者が、「国に頼らず、自分の老後は自分で面倒をみるんだ」と言っていましたが、おそらく、この言葉が、ある意味でこの国の事態を象徴していると思います。
 他人に頼らず、自分の才覚で生きていくべきだということですね。だから、ほっといてくれと。
 しかし、そういうことを言えるのは、やっぱり強者なのです。
 ご存じの通り、年金税は将来の受給者のための積立金ではありません。現在の受給者の年金資金です。年金税を払わないというのは、今現在、この社会に共生している年寄りのために、カネを出すつもりはないという意味になります。(もちろん、現在の年金制度には様々な不公平があるし、問題が多いのも事実ですけれど)
 強い者にだけ生きる権利がある、ということなのでしょう。

 そうした社会に、ぼく自身が追いつめられた気持ちになっている、というのが事実です。
 ぼくが、子供達にかけられている圧迫に過敏に反応してしまうのは、そういう意味なのです。それは、他人事ではない、自分自身にとってのリアルな問題なのです。

 N君。でも、ぼくはもう一度、偽善者に戻って、子供の持つ絶望感について一言いっておきたい。
 こういう社会では、人間としての評価は「能力」に応じて下されます。そういう大人社会の価値観は、子供達の中によりストレートに入り込み、いわゆる「プータロー狩り」のような少年犯罪を引き起こしました。つまり、「カネを稼ぐ能力」を持たない、あるいは放棄したホームレスは人間として失格である、人間ではないということになるのですね。
 親は、現実にあわせて、子供達に「能力」を付けさせようと必死になっているわけですが、それは同時に「能力」を獲得できない者は、ホームレスと同様、人間失格者であるという価値観とセットなのです。子供達にとって、受験に合格しないことは、つまり「無能力」、人間失格、おしまいだということになってしまうのではないかと思います。
 しかし、少し考えればわかるとおり、そんなことを言ったら、世の中、負ける人の方が多いのです。こうして子供の世界の中に、敗北者の絶望が蔓延してきたのではないでしょうか。
 しかも、価値観が「カネを稼げる」という指標ひとつしかない世界にあっては、別の形で敗者復活を遂げることはできません。ただ、みんなと同じコース上でレースを続けるしかないのです。
 不毛、という言葉しか浮かびません。

 ある時期まで、社会は変化しうるという考え方が、世の中にはありました。「革命」という言葉が、本当の革命を意味していた頃のことです。
 しかし、今や、権力を握る者、現状の権益を維持しようとする者達が、あまりにも強大で鉄壁の体制を作り上げてしまった。
 もはや、世の中を変えることはできない、というよりも、現状に異議を申し立てるという行為さえ、極めて特殊な行動と見られてしまうような風潮が確立してしまいました。
 子供達の世界でも、ちょっと他人と毛色の変わった子供は、イジメにあうということのようです。(これも、ストレートに大人社会が反映していますね。悲しいことに)

 N君。
 どうしたらいいのだろう。
 世の中は八方ふさがり、三すくみの状態です。君の好きなチェスに例えれば、もう千日手、勝負無しだ。
 それでも、ぼくたちは、死ねない以上生きていかねばならないし、子供達はさらにもっと生きていくのです。
 荒野であっても、せめて吹く風があれば、少しは過ごしやすいだろうに。

 N君。
 いずれにせよ、ぼくや君に残された手は、「創作」しかないのではないかと思います。そんなことができるかどうか、ぼくは本当は半信半疑だけれど、世の中の常識になっている価値観と対抗し、誰かにぼくらの感性を伝えていく手段は、創作品しかないのではないと思います。もちろん、とうてい、ぼくの作品が風になれるはずはありませんが。
 でも、それでも、書かずにいられない。そうでしょう?
 それは、書くということ自体が、癒しだからです。
 N君。君が他人に一度も読ませたことのない小説を、いつまでも書き続けているのは、そういうことなのではないですか?

 ぼくは、この世紀末に、無意味な創作を続けます。
 しかたがないのだもの。

 きょうは、ビールの空き缶が、やけに多くなりました。

                        (了)_
              (Creative Synapse 1998.9.20版)